こんにちは。チョッピーです。
今日は僕が個人的に感じている「情報は無料で提供すべき」だという考えについて語ってみたいと思います。ちなみに、今時点で「何故そう考えるのか?」という明確な答えはありません。この記事を書きながら考えていきたいと思っています。
なので、最終的に、この記事がキレイに「○○だから情報は無料で提供すべきなのだ」という形で着地するかは不明です。「なんかうまく説明できないけど、情報は無料で提供すべきだよ」というふにゃっとした形で着地してしまうかもしれません。今回の記事はそういうダイナミズムも含めて楽しんで頂ければ…と思います。
ちなみにおそらくですが「無料で提供した方が結果的にお得だから」という様なマーケティング施策的な結論に着地させる事は無いと思います。多くのビジネスパーソンが求めているのは、もしかしたらそういう情報かもしれませんが、個人的にあまりそういう方向での議論に興味が無いのです。(この記事をビジネスパーソンが読んでいるのかどうかもよくわかりませんが)
何故かというと「どの様な態度がマーケティング的に良策であるか」は「同じビジネスの各プレイヤーの戦略」などの各種の事業環境によって結論が変わってくる可変なモノである様に思えるからです。例えば2019年現在においては「貴重な情報を有料で提供するプレイヤー」や「オンラインサロン等の有料かつクローズドなコミュニティを提供するプレイヤー」などが勝ち組になっている感が強いですが、これらのプレイヤーが増えてくるに従い「逆張り的に価値ある情報を無料でオープンに提供するプレイヤー」に勝ちの目が見えてくる可能性もあると思います。また、逆も然りでしょう。
この辺りの話は「ゲーム理論」とかの分野で深く研究されているのではないでしょうか。僕はあんまりその辺りの分野を学んだ事が無いのでよくわからないのですが「ナッシュ均衡」とか「囚人のジレンマ」とか、その辺りの考え方を駆使すれば理論的な説明が出来そうな気もします。
何が言いたいかというと、要は「どの様な態度を取るのが最適か」というのは「時代やプレイヤーの行動などの各種変数によって変動する方程式の解」であって本質的なモノでは無い…と僕は考えているのです。その様な本質的なモノではないモノを考える事に僕はあまり面白みを感じません。
僕は、そういうモノよりも、もっと「本質的な価値」について考えていきたいと思うタイプの人間です。具体的に今回のテーマに即して述べると「情報とはそもそも人間にとって○○な存在であるから、人類全体の発展・幸福のために××すべきだ」という様な本質的な答えを追求していきたい。そちらの方により興味が湧くからです。
もちろん、別に僕は、僕自身のこの性向を「そちらの方が本質的で優れている」などと言うつもりはありません。むしろ「今、この状況において、どの様な戦略で、どの様な態度を取るべきか」を考える事に興味が湧く人の方が「時代を生き延びる確率」や、もっと生臭い表現で言うと「お金儲けの才能」とかには溢れていると言えるでしょうし「お金を稼げる」という事は「社会に貢献している」という事ですので、そういう観点から観た場合には僕が言うところの「本質的でない答え」を追求する事に興味がある方の方が「社会的な価値が高い」と言えるのかもしれません。
今回の記事では、そういう観点は全て脇に置いて「僕が興味のある方向性」で思考を深めていきたいと考えています。何故ならば、そちらの方が僕自身が楽しく記事を執筆出来るからです。
若干、循環論法的になってきましたので「どういう方向性でこの記事を書いていくか」の説明は、この辺りで切り上げたいと思います。すでに文章量がだいぶ多くなってきてしまいましたね。このペースで文章を書いていて、結論までたどり着く事は出来るのでしょうか? ちょっと雲行きが怪しくなってきましたよ…。
さて、やっと本題です。
僕は何故「情報は無料で提供すべきだ」と考えているのでしょうか?
単純に「タダで情報を取得できた方が嬉しい」という貧乏性の発露なのでしょうか。
その可能性はあります。
誰しも経済人(以下を参照)としての特性を少しは備えていると思います。
自己の経済的利益を極大化することを唯一の行動基準として経済合理的に行動する人間の類型をいう。ホモ・エコノミクス(ラテン語)の訳語。古典学派の経済学者が、経済社会の法則を説明する際に、理論の前提として想定した経済社会における一般的人間像である。
経済人|コトバンク
自己の経済的利益を極大化させるためには支払コストは小さければ小さい方が望ましいわけです。
で、その値は現実的には「ゼロ円=無料」となるでしょう。(マイナスの値段も考えられますが、それが設定されている商品ってあんまり無いと思いますので現実的に期待できる最小コストって「ゼロ円=無料」だと思います)
そういう風に考えると僕が「情報は無料で提供すべきだ」と考えている事の理由は単純に「自己の経済的合理性を追求しているから」となるのかもしれません。しかしながら、個人的には「それは違うのでは…」という気がします。何故ならば「自己の経済的合理性を追求しているから」が理由であるのであれば「無料で提供すべきだ」と感じる対象は「情報以外」も含まれていないとおかしいからです。
でも、僕は、例えば「飲食品」や「サービス」などが「有料で販売されていること」に関しては何も憤りを感じたりはしません。「そりゃ、どの様な商品もなにかしらの労働力が費やされた成果なんだろうし、価値に応じた値段が付けられて然るべきだよな」と考えます。
「労働力」と「価値」…。
なんだかキーワードとなる単語が出てきた気がします。
ちなみにある商品の適正価格を考える時に「商品完成までに費やした労働力×単位時間当たりの単価=価値」という考え方が存在すると思いますが、僕はこの方程式が適正価格の算出において必ずしも正しいとは思っていません。何故ならば商品の適正価格とは「販売側と購入側の両者が納得した価格」であるハズだ…と考えているためです。前述の方程式で算出できるのは「商品販売側が考える商品の価値」だけであって、それが必ずしも「購入側が考える商品の価値」と一致するとは言えないと思います。よって「情報発信にも労働力が費やされているのだから、それに見合った値段が付けられて然るべきだ」という考え方を全肯定する事はできません。「購入者側の価値も判断材料に加えるべきだ」と考えています。
では僕は「情報は無料で提供するべきだ。何故ならば情報には価値が無いから」と考えているのでしょうか。そんなわけはありません。情報には多かれ少なかれ価値が存在すると考えています。
さて、ここまでの記述で、僕は情報に対して以下の様な考え方を持っている事がわかりました。
- 価値のある商品には、相応の値段がついて然るべきだ
- 情報には価値がある
- 情報は無料で提供されるべきだ
うーん、矛盾していますね。
この考え方に整合性を付ける事は出来るのでしょうか。
少し視点を変えてみましょう。
僕は前述の通り「情報以外の商品」が「有償で提供されること」に関しては何の憤りも感じていません。ところが「情報」に関しては「有償で提供されること」に憤りを感じています。それでは、僕は全ての「有償で提供されている情報」に対して憤りを感じているのでしょうか?
答えは「No」です。
僕は書籍や新聞が有償で提供されている事には何の憤りも感じていません。映画に関してもそうですね。他には…CDとかゲームとかも有償で提供されている事に憤りは感じないですね。
では、反対に僕が有償で提供されている事に憤りを感じている情報とは何なのでしょうか?
たとえば情報商材系やオンラインサロン系に関しては、憤りを感じますね。
あとはオンラインではなくても有益な情報が交換されていると噂されている会員制のビジネス系クラブとかにも憤りを感じます。
これらの違いはなんなのか?
なぜ僕は同じ情報というモノを「憤りを感じるモノ」と「憤りを感じないモノ」の2種類に分類しているのでしょうか?
ここまで書いていて、なんとなくわかってきました。
まず僕が「憤りを感じない情報」はさらに2種類に分ける事が可能です。
- 図書館などで無償で入手する事が可能なモノ
- 娯楽性が強いモノ
「1」は「新聞」「書籍」が該当します。
「2」は「映画」「CD」「ゲーム」が該当します。
ここから僕は「基本的には有償だが、無償で獲得できる方法が用意されているモノ」や「その目的として娯楽を主としているモノ」に関しては「有償でもよい」と考えている事がわかります。「娯楽以外の情報」は「生きる上で直接的に益となる情報」と言い換えていいと思います。要は僕は「無償で得る事が出来ず、かつ、生きる上で直接的に益となる情報」に対して憤りを感じているのですね。
検証のために前述した「情報商材系」「オンラインサロン系」「有益な情報が交換されていると噂されている会員制のビジネス系クラブ」が「無償で得る事が出来ず、かつ、生きる上で直接的に益となる情報」に該当するかを考えてみると…バッチリ該当しますね。最後の情報なんて「有益な情報が交換されている」と言っちゃってますし「情報商材」や「オンラインサロン」に関しても提供側は必ず(その真贋はともかくとして)「情報を購入する事に伴う何らかのメリット」を謳っているハズですし、それらの情報は図書館で得る事も出来ないでしょう。(実際には同種の情報が記載されている書籍が図書館にある可能性は高いと思うのですが、該当の情報を購入していない者にはそれを証明する事は出来ません)
ここまでの記述で僕が「有償で提供されるべき」と考えている情報の種類が判明しました。
「生きる上で直接的に益となる情報」ですね。これに対して僕は少なくとも無償で入手できる方法をひとつは用意すべきだと考えている。何故でしょうか。
僕は「情報」とは生存競争における前提条件であり、そのプレイヤーに等しく共有されているべきモノだと考えているのです、たぶん。それが為されていない場合、資本主義社会の理念が成り立たないと思われるからです。
僕は資本主義の理念とは「各々が自己の欲望に従い、個々の便益を最大化すべく活動する事が結果として社会全体の発展に繋がる」というモノだと認識しています。これは「プレイヤーが自己の利益のために積極的に競争を行う事により競技(社会)のレベルが上がる」という考え方と同一だと思っているのですが、ここで「情報」はその競技のルールに該当すると思っています。「ルールを知っている者とルールを知らない者の競争」は「ルールを知っている者」が勝利するに決まっています。そもそも、その状況においては競争が成り立ちません。競争が発生しない競技においては、競技全体のレベルが向上する事もありません。要は「情報が共有できない状況においては社会全体の発展が進まない」という事が言えると思います。
ここまで書いて、やっと思い出したのですが「プレイヤー間で情報が共有されていない状態」を端的に表す言葉がありましたね。「情報の非対称性」です。
取引を行う際、商品等に関して当事者がもっている情報に当事者間で格差があること。 例えば、新品の商品が取引される場合、品質や性能がカタログ等によって示されており、価格を決定する情報は、売り手と買い手との間で「対称」であるといえる。それに対し、中古品の場合は、個体ごとに使用年数、摩耗や損傷の有無・程度などの情報が異なるため、価格を決定する品質情報に関して、売り手と買い手との間に「非対称性」が生じるといえる。 後者の場合、買い手は価値の低い中古品を、そうとは知らずに高い価格で買ってしまうおそれがある。しかし、後になって自分が損な取引をしたことに買い手が気づき、他の買い手も購入に対して慎重になると、中古品が売れなくなる可能性が出てくる。そこで売り手は、情報公開や何らかの品質保証を求められることになる。 このように、市場に情報の非対称性が存在する場合、その市場ではさまざまな問題が生ずる。逆選択やモラル・ハザードなどはその代表例とされている。
情報の非対称性|コトバンク
ついに結論に辿り着きました。
僕が「情報は無償で提供されるべきだ」と考えている理由をまとめると以下の通りです。
情報の非対称性が存在する状況は社会全体の発展を阻害するため望ましくない。情報を有償でしか得られない様にする事は情報の非対称性を生み出す事に繋がる。よって情報は無償で提供すべきである。なお、ここで言う情報とは娯楽以外の生きる上で有益な情報の事を指す。
いやぁ、長々と自分の考えを整理したかいがありました。
この記事を書いている途中は終始「うーん、マズいなぁ。とんでもなく難しいテーマに手を出してしまった。今の僕になにかしらの結論を導き出す事は出来るのか?」という気持ちになっていましたが、最終的には自分なりの結論を導き出せたのでよかったです。
個人的に「有償の情報提供系サービスに憤りを感じるんだけど、理由がよくわからない」という気持ち悪さはいつか解消しなければならない…と思っていたので、今の自分なりの結論が導き出せてスッキリしました。今後、考え方が変わる日がくるかもしれませんが、それはそれ。
皆さんも「理由はよくわからないが、そう思う」という事に関して、一度、立ち止まって考えてみる機会を作ってみてはいかがでしょうか? かなり難易度の高い作業になるとは思いますが、なんとか結論を導き出せると、すごくスッキリしますよ!
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