【Daily Choppy !】第104回:僕は「社会的欲求以上の階層の欲求を満たす前に、生理的欲求や安全欲求の階層における欲求が満たされる様に動くべきではないか?」と考える…という話

Daily Choppy ! アイキャッチ画像2Daily Choppy!

こんにちは。チョッピーです。

今回の話は「マズローの5段階説」を下敷きにしています。
「マズローの5段階説」が学術的に正しさを証明されているのかどうかを僕は知らないのですが、話を展開する上で使いやすいので活用させて頂きます。

「マズローの5段階説ってなぁに?」という方はGoogleで検索いただけますと、内容を解説されているページが大量にヒットしますので、そちらを先に読んで頂けますと助かります。「どうして吾輩がチョッピーなどという下賤な者の記事を読むためにワザワザ事前知識を勉強しなければならんのだ」と憤ってしまった高貴なる方がいらっしゃいましたらスミマセン。でも「マズローの5段階説」は今後の皆様の人生において役に立つ考え方になる可能性もあるので「チョッピーの記事を読むため」という理由を度外視しても、知っておいて損は無いと思います。検索結果は「こちら」です。

本題に入ります。

最近、個人的にいわゆる「福祉的な考え方」というモノに触れる機会が多いです。まぁ、そもそも「ふらとぴ」自体が「障害福祉施設で生産された製品(=授産製品)の売上向上をサポートする」ことを目的のひとつとしているので、その勉強のために福祉関係の書籍を読んだり、それとは全然、関係ないところでもボランティアに行ってみたりしているので当然なのかもしれませんが。

その中で個人的にいつも引っかかる部分があります。どうも福祉関係の方々って「福祉対象者に寄り添う」事を至上目的としているのではないか?と思われるフシがあるのです。

寄り添う。結構な事だと思います。様々な事象により傷つき疲れた精神が、同じ目線に立つ他者からの言葉や行動によって癒される事もあるでしょう。その効果はまったく否定しませんし、むしろ、全ての人間が積極的に実施すべき行為である様にすら感じます。そうすれば「優しい世界」が実現され「全ての人間が幸福になる」事も有り得るかもしれません。

ただ、それを「至上命題」にするのってどうなんでしょうね。
「寄り添う事による効果」が前段で示したように「対象者の癒し」であるとするのならば、それは「すでに傷ついている者」に対する「対処療法」であって「根本的治療」ではないのではないか?という疑問が僕にはあります。

「福祉対象者」が「根本的に抱える課題」を解決しなければ「福祉対象者」は常に課題から「傷つけられる存在」であり続けるしかなく、その精神の摩耗具合に応じて「対処療法=他者からの寄り添い」を常に必要としてしまう。それって正しい事なのでしょうか?

僕はビジネスマン(のつもり)なので基本的に課題に対しては「暫定対応」と「根本対応」の2通りの対応があると考えています。それぞれの対応方法の説明は以下のとおりです。

  1. 暫定対応
     顕在化してしまった課題による影響をさしあたり食い止めるための対応。
     例えば料理中の包丁さばきのミスによる出血に対して実施する止血作業などの事を指す。
  2. 根本対応
     課題の顕在化の有無に関係なく、その課題自体を解消するための対応。
     例えば料理中の包丁さばきのミスによる出血を防ぐために、包丁さばきの技巧を磨く活動の事などを指す。

要は上記で言うところの「寄り添う」は「対処療法であり暫定対応」なのではないか?と僕は考えているのです。本当に至上命題とすべきは「根本対応」であり「寄り添い」ではないのではないか?

「いや、精神の癒しこそが福祉対象者に対する根本対応であり福祉関係者が至上命題とすべき事象なのだ」という反論もあるかもしれません。でも「マズローの5段階説」を考えると「そうではない可能性」も見えてきます。

「寄り添う」事により「寄り添われた者」が満たす事の出来る欲求とはなんでしょうか?
それはおそらく「所属」や「愛」に対する欲求では無いでしょうか。「同じ目線に立つ他者」の存在により「寄り添われた者」は「自分はこの社会に存在していてもよい」という気持ちになるハズです。これは非常に大事な事です。最近では「自己肯定感」という言葉で、その大事さが盛んに強調されていますが「自己肯定感」は他者からの承認によってのみ得られ、これが得られていない人間は常に不安感に苛まれると言われています。(と僕は認識しています)よって「誰かに寄り添われる事」は人生においてとても大事な事であり、無視する事は出来ないモノであると思います。

ただし、この欲求はマズローの5段階説では「社会的欲求」と呼ばれ、第3階層として示されています。マズローの5段階説では「低次の欲求が満たされない限り高次の欲求が正しい形で満たされる事は無い」と考えます。(という認識です)

この考え方が正しいのだとすれば、もしかすると「福祉対象者が抱えている課題」の内容によっては「寄り添い」よりも重視すべき何かが有り得る可能性も考えられます。それは「生理的欲求」や「安全の欲求」が満たされていない場合です。

例えば僕は先日「台風15号の被害にあわれたお宅の家財道具の運び出し」というボランティアを実施したのですが、その際に配られた「ボランティアのこころえ」という紙の冒頭に書かれていた考え方に強い違和感を覚えました。

ボランティアのこころえ
ボランティアのこころえ

「台風被害からの復旧のボランティア」の目的は「台風被害からの復旧」である事は自明です。もちろん、その被害の中には「被災者の精神的苦痛」も含まれるのだろうとは思いますが、それを解消するために必要な精神的な考え方を「こころえ」のトップに持ってくるべきなのでしょうか。「台風被害」にはもっと差し迫った「生理的欲求」や「安全の欲求」を脅かす物理的な課題が存在するのではないでしょうか。例えば「台風によって被害を被った家財道具が自分だけでは運び出せない」といったような。ボランティア実施者が【「させていただく」の精神】とやらを備えていれば、こういう物理的な課題は必ず解消するのでしょうか? 僕にはそうは思えません。

個人的には「生理的欲求」や「安全の欲求」を満たすために、一番、効果的なモノは「金」だと考えています。「直接的な労働力が必要な場合」でも「なにかしらの器具が必要な場合」でも「金」さえあれば、それは世界中から購入可能だからです。(逆に第3階層以上の欲求を「金」で満たす事は難しいでしょう。欲求の対象物が購入不可能なモノである場合が多いと思われるためです)

ただ、だからと言って福祉対象者に単純に金を渡す対応は暫定対応に過ぎず、金が無くなってしまえば再び「生理的欲求」や「安全の欲求」は脅かされてしまいます。それを解消するための根本対応のひとつとして考えられるのは「福祉対象者がそれを満たすだけの労働が可能になること」だと思います。だからこそ、ふらとぴは「障害福祉施設で生産された製品(=授産製品)の売上向上をサポートする」を目的のひとつとしているのです。

本日もふらとぴに訪問頂きありがとうございます。
少しでもお楽しみ頂ければ幸いです。

今回、災害ボランティアに実際に参加してみる事によって自分の考えの明確化が出来ました。やはり、なんでもやってみるものですね。

タイトルとURLをコピーしました