こんにちは。チョッピーです。
ふと思ったんですけど、この連載の冒頭の挨拶っていつも「こんにちは」にしていますが、読者の方は別にこれをお昼に読むと決まってはいないんですよね。もしかしたら「おはようございます」かもしれませんし「こんばんは」なのかもしれませんね。
この連載を目にするたびに「【こんにちは】じゃないんだよなぁ…」と不快に思われている方がいらっしゃいましたら申し訳ございません。まぁ、だからといって冒頭の言葉を昔のインターネットみたいに「おはこんばんちわ」みたいな悲しい気持ちになる挨拶に変える気は全くないのですが。
こんな事を書いていたら思い出した事があるのですが、僕、前職はIT系の企業に勤めていました。
そこの会社の社員って、不思議な事に、いついかなる場合においても挨拶をしない人が多かったんですよね。どうもちょっと検索してみたところ以下の様な記事もヒットするので
「ウチの社員はあいさつしなくってさあ」──。こう漏らす、IT企業の経営者やIT職場の管理職は少なくない。
ブラック臭が漂うIT職場、「あいさつ運動をやろうよ」は逆効果 |日経XTECH
朝、出社しても、誰もあいさつしない。唯一あいさつするのは清掃員や警備員だけ。あるいは新人や転職してきたばかりの中途社員のみ。その人たちも3カ月もすれば、あいさつをしなくなる。それもそのはず、周りの人たちが誰もあいさつをしないのだから、自分もしなくなる。
IT系人材が挨拶をしない傾向にあるのは一般的な事だと言えるのかもしれません。
ちなみにこの記事は2018年5月の記事なのですが、2006年9月の記事にも同じ様な内容の記事が書かれています。以下に引用。
SEの中には,顧客のビルの中などで顧客の方とすれ違っても横を黙ってすーっと通るSE,顧客の情報システム部の部屋に入っても挨拶もしないSE,顧客に挨拶もせずにいつの間にかいなくなってしまうSEなどいろいろなSEがいる。このような,どう考えてもおかしいことが,SEの世界ではまかり通っている。
挨拶をしない/できないSE族 |日経XTECH
もちろん中にはきちっと挨拶するSEもいるがそんなSEはそう多くはない。
なので「IT系人材は挨拶をしない傾向にある」事は最近に始まった事ではなく、かなり昔から固定化された文化として定着していると言えるのかもしれません。
僕は基本的に挨拶はした方がいいと考えている人間なので、前職に在籍していた11年間においても挨拶はしていました。(返事は返ってこない事が多かったのですが)なので「挨拶をしない人」の事がどうにもよくわかりませんでした。正直、今もよくわからないです。どういう理由からしないんでしょうね?
この件に関しては11年間、ずっと不満に思っていたのですが、これはもしかしたら昨日の「Daily Choppy !」で書いた「理性」と「感情」の話に繋がるのかもしれないぞ…と思い当たりました。該当記事は以下。
【Daily Choppy !】第76回:人間に理性と感情が同居している事の不思議さについて
そもそも皆さんは「挨拶」の役割ってなんだと思いますか?
こういう時は辞書を引くのが一番です。引いてみましょう。
現在では他人に対して尊敬や親愛の気持を表わす動作,言葉,文面などを意味するようになっている。
挨拶|コトバンク
なるほど。挨拶の役割は「気持ち」を伝える事にあるのですね。
という事は「理性」と「感情」のどちらに属する行為であるかと問えば、答えは「感情」になりそうです。だとすると、もしかしたら普段の行動において極端なくらいに「理性」を優先させている人にとっては「挨拶」は「無駄」なモノだと認識されているのかもしれません。で、IT系人材にはそういう方が多いのかもしれません。もしかしたら、ですけど。
確かに「挨拶」をする事によって交換される情報って「私はあなたが存在している事を肯定的に認めていますよ」という事だけであって、他に付加されている情報はありません。「理性」で考えれば「相手が存在している事は見ればわかるし、それを肯定的に捉えている事は攻撃を加えていないという事実から類推できる。よって、ワザワザ挨拶という行為をするのは無駄」みたいな理屈も成り立つのかもしれません。
こういう風に視点を変えて考えてみると「なんだかよくわからないな」という人の行動原理も少しは理解できる様になるのかもしれませんね。まぁ、ただ、これはあくまでも「わからない事を、自分の理解の範疇に収めようと試みてみた」というだけの事に過ぎませんので、その結果、導き出した結論が正しいのかどうかは全然、わかりません。もしかしたら合っているかもしれないし、もしかしたら間違っているのかもしれません。たぶん、間違っている可能性の方が高いでしょう。
なので僕としては基本的には「自分の価値観と異なる価値観を持つ人物の行動原理を理解する事は不可能。わからない事はわからないとして受け入れるのが一番である」という考え方が無難なのではないかな…と思っています。
この記事で試みたように「自分の理解の範疇で、相手の行動原理を勝手に推し量る」事は可能だとは思うのですが、それが合っているのか間違っているのかは、本人に確認しない限りわかりません。そもそも自分に置き換えた場合に「お前は○○な考え方で動いている××な人間なんだな」と他人から勝手に判断されたら、それが自分の認識と合っていようが間違っていようが関係なしに不快ですよね。要は「他人」という「自分にはわからない存在」を「わかろうとする」時点で無駄かつ不遜で失礼な態度だという事なのだと思います。
結局のところ、世の中にはわからない事の方が多いのですから「わからない事はわからない」として受け入れた方が心の平穏のためには良い気がします。(こういう考え方が絶対に受け入れられない方も一定数いるとは思うのですが)
なんだか今日もよくわからない記事になってしまいましたが、ここまで読んで頂きありがとうございました。「なんにも考えずに記事を書き始めたらどうなるのかな?」という実験をしてみたら、こういう記事が出来上がりました。(いつもは少なくとも何をテーマとするか…は決めてから書き始めているのですが、今日は本当に何も考えずに挨拶から書き始めてみました)
本日もふらとぴに訪問頂きありがとうございます。
少しでもお楽しみ頂ければ幸いです。