【Daily Choppy !】第522回:純文学の価値とは?

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こんにちは。純文学の定義がわからない男、チョッピーです。

今回の記事について

純文学の価値とは?
純文学の価値とは?

今回はチョッピーの考える「純文学の価値」についてのお話です。

昨日、モノ作りにおける心構えを考えた

昨日の「Daily Choppy !」(第521回)↓で僕なりのモノ作りにおける心構えについて書きました。

こちらの記事のテーマを端的にまとめます。「モノ作りにおいては公共性の高い気持ちだけを表現するべきだ。自分だけにしか関係のない個人的な気持ちを表現する必要は無い」です。

チョッピー
チョッピー

お、珍しく太字&アンダーラインを使っているね。これもなにかしらの心境の変化の表れなのかな?

そうなのです。

実は、僕は今まで「WEBメディアであろうとフォントを太くしたり大きくしたりして文章を強調したりするのは好ましくない。それは己の文章力の拙さを小手先の技術でカバーしているだけだから」と考えていました。そのため僕の書く記事ではフォントはあまりイジられていませんでした。

でも、よく考えるとこれは「自分だけにしか関係のない個人的な気持ち(=フォントを調整しなくても文意が伝わる文章力を身に着けたい)」に基づいた考えに過ぎない。そのため考えを改めました。今後は「伝わりやすさ」を重視して必要十分な程度にフォント等の調整をしていこうと思います。

というわけで、上の文章では重要な部分を早速、太字にしてみました。このテクニックも使いすぎるとクドくなったり古く感じたりすると思うので効果的に使えるように気を付けたいと思います。

チョッピー
チョッピー

確かに「フォントはイジらないけど吹き出しや画像は多用する」って、チョッピー以外には理解不能な謎のこだわりだもんね。そんなこだわりを通したところで「書き手としてのチョッピー」以外、誰も嬉しくない。今すぐ捨てた方が良さそうだ。英断。

純文学には作者の個人的な気持ちを込めてもよい?

昨日の記事を書き終えるまでは「この考えは完璧だ…」と思って書いていました。が、実は書き終えた直後に「いや、待てよ…」と別の考えが頭をよぎりました。

そう、純文学って「作者以外には理解不能な謎のこだわりの集大成」みたいな気がしたんですね。だから一般的な商品としての経済的な価値…つまり売上はかなり低いように思われます。実際、相当な読書好きにしか読まれていないのではないでしょうか?

純文学は経済的な価値が低い。では、純文学は社会から全く認められていないのか? そんな事はない気がします。

「芥川賞」という日本の文芸界において一番有名であろう権威は、純文学(とされている作品)に与えられがちです。という事はおそらく「作者以外には理解不能な謎のこだわりの集大成でも、経済的な価値とは異なるところで作者以外の人間に評価される可能性はある」という事なのでしょう。

チョッピー
チョッピー

今回の記事、太字率、高くない? 大丈夫? チョッピー、太字童貞なんだから気をつけた方がいいよ。あぁ…フォントサイズまで大きくしちゃって…。

純文学は読者に「気付いていない感情」を与えるのが目的なのか?

純文学の価値とはなんなのでしょうか。参考に芥川賞の説明を引用してみます。

雑誌(同人雑誌を含む)に発表された、新進作家による純文学の中・短編作品のなかから、最も優秀な作品に贈られる賞です(公募方式ではありません)。

各賞紹介|公益財団法人日本文学振興会

「最も優秀な作品」…だと…!? それは一体…? その選考基準は…? 少なくとも芥川賞を催している公共財団法人日本文学振興会のサイト上では見つけられませんでした。「選考委員が最も優秀だと思った作品」がすなわち「最も優秀な作品」とされるようです。

芥川賞における「最も優秀」の定義がわかれば純文学の価値もわかるかと思いましたが…僕は浅はかでした。純文学はそんなにわかりやすいモノではない。

仕方ないので自分の中で考えてみましょう。その逡巡をここで書いても面白くないので結論だけ述べます。

チョッピー
チョッピー

ズバリ! 純文学は「わけのわからなさ」を与えること自体が目的なのではないでしょうか!?

「わけがわからない」とはつまり「自分の中で消化できない」という事です。自分の中で消化できないのは何故か? 「そのお話の中で描かれている何かが自分の中にない」からです。それは快適なモノかもしれませんし、もしかすると不快なモノかもしれません。快不快などは問題ではないのです。とにかく「読者の中にないモノ」であればよいのです。おそらく。

読書経験前後で読者を変える可能性がある。これが純文学の価値なのかもしれません。

ふらとぴ運営に純文学要素を組み込めるか?

読書経験前後で読者を変える可能性がある。言い換えると「読者を啓蒙する可能性がある」です。これが純文学の価値だとすると、もしかするとこれはふらとぴ運営にも組み込めるかもしれません。

何故か? ふらとぴは「コンテンツを楽しんで、ついでに授産製品を買ってもらう」を運営の目的のひとつとしているサイトだからです。

チョッピー
チョッピー

授産製品とは「障害福祉施設が製造・販売している商品」の事だよ。その製造・販売には障害福祉施設の利用者が関わっており、その売上は利用者の収入の原資となるんだ!

多くの方は授産製品の存在も知らないと思います。僕もこの事業を始めるまで知りませんでした。その存在を知らない人に「買う」というアクションをしてもらう。これには啓蒙要素が含まれるように思えます。

「とあるサービスのユーザが、そこで紹介されている商品を購入する」までの流れ…ビジネスチックな表現をすればカスタマージャーニー、これには様々なルートがあると思います。

カスタマージャーニーとは

顧客がある製品やサービスを知り、実際に購入するまでの過程。どのように製品やサービスを認知し、競合製品との比較などを経て、購入に至ったのかを旅にたとえたもの

カスタマージャーニーとは|コトバンク

そのうちのルートのいくつかに「啓蒙」という要素を組み込むのはアリかもしれません。そして、その手段として純文学的要素は大いに活用できるのかもしれません。

ただ、この要素は使うとしてもあくまでもアクセント程度に留めておいた方が良さそうです。基本的に「人は誰かから強制的に変えられる事を好まない」と僕は感じています。事業として考えた場合、ふらとぴがユーザに嫌われるであろう策を取るのは、その運営者としては好ましくないと考えています。

本日の締め

今回は僕の考える「純文学の価値」についてのお話を書いてみました。

ここで書いた結論が唯一絶対のモノであるかどうかはわかりませんが、自分なりの答えは導き出せたので良かったです。今回も書くのに苦労したなぁ…。皆さんはどう考えられますか?

本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。

ちなみに冒頭の画像で僕がマネしているのは芥川龍之介です。全然、似てない。

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