こんにちは。お笑い好き、チョッピーです。
難しいタイプの笑い
最近、「笑い」がドンドン難しくなっているように感じる。
そうかしら。極論、くすぐれば誰しも笑うのでは?
もちろん「笑い」と一口に言っても色々な種類がある。全ての「笑い」が難しくなっているわけではない。
人間は「嬉しさ」や「楽しさ」などを感じた時にも笑う。同様に「おかしさ」を感じた時にも笑う。
くすぐっても笑う。
ここで言う「難しくなっている笑い」とは「おかしさを感じた時に引き起こされるタイプの笑い」を指す。
「くすぐりによる笑い」を一貫して無視するのはよろしくないと思います。
いや、あの…それは今回の記事の趣旨と明らかにズレるので…。
ていうか、なんとなく雰囲気でわかるでしょ? くすぐりに対して「難しい」なんて言うわけないじゃない!
そうだね。
なんだコイツ。
なぜ笑いは難しくなっているのか
さて、上で「ズレ」という言葉を使った。
僕はこの記事の冒頭において、吹き出しと地の文で「明らかにズレた発言を繰り返すボケ」と「何がどうズレているのか説明するツッコミ」の一人二役を演じている。
これは読者の皆様に「おかしさ」を提供したかったからだ。
実際におかしくて笑えたかどうかはさておき。
上で実演してみたように「おかしさ」は「ズレ」によって引き起こされる。「ズレ」とはつまり「一般との差異」だ。
いわゆる「お笑い」においては「ボケ」がその差異を意図的に表現し、「ツッコミ」がその差異を客観的に説明する事で「笑い」が成立する。
差異のないところには「おかしさ」は存在せず、「おかしさ」の存在するところには必ず差異がある。
この場において「笑う者」は自らを「一般側」だと感じている。「一般側の立場」から「笑われる者」に対して「差異」を見出しているため、それにおかしさを感じるのである。
つまり「おかしさを起因とした笑い」には多かれ少なかれ、必ず分断の可能性が潜んでいる。
そこには「笑う者」と「笑われる者」という2つの立場が存在する。「笑う者」は「笑われる者」を「私たちとは異なる差異を保有する存在」だと認識し、それを「おかしい」と感じている。
この発想は多様性を尊重するスタンスと相性が悪い。
差異に対して「みんな違ってみんないい」という捉え方が出来れば問題はないかもしれないが、こと「笑い」においては「差異が笑える≒その差異が存在するのはおかしい」と捉えられる可能性が高い。
なので、最近の「笑い」は難しくなっている。
ズレの種類と利用可否
「ズレ」には様々なモノがある。例を挙げると以下の通り。
- 身長の高低などの身体的なモノ
- 職業の有無などの社会的なモノ
- 知識や技術や認識に関わるモノ
これらのうち、現在の倫理観で否定される可能性が低いモノは、おそらく「3」だけであろう。
「1」と「2」は、どちらも現在の社会における共通認識としては非倫理的だと判断される可能性が高いと思う。
そうかなぁ。言い方次第で「1」と「2」もネタに出来るんじゃない? 具体的には自虐ネタとして使えばいいんじゃないかな。
個人的には「1」と「2」は自虐ネタとして扱うのも危ういと感じている。
いかに自虐と言えども、それを観た人が、そのネタと同じ特徴を有している場合、問題が起こらないとも限らないためだ。
※なお、この件に関しては関連する内容の記事(『Daily Choppy !』第570回)を過去に書いている。気になる方はこちらも合わせてご参照ください。
そもそも、それを「笑いのネタ」として使う行為自体に前述した通り「その特徴を有する人」と「有さない人」のように2つの立場を生じさせる効果がある。それ自体が多様性を尊重するスタンスに反すると言えなくもない。
じゃあ、まぁ、自虐ネタであろうとも「3」の場合でしか使わない方が良さそうだね
そう思う。
ただ、個人的には、そうなるともはや自虐ネタ自体、使わない方が良いのではないかと思う。
笑いの価値を下げる行いは止めよう
「3」の場合でも自虐ネタを使わない方がいい…? そりゃまたどうして?
あくまでも個人的な感覚の話になるのだが、「3」のケースで自虐ネタを使う場合「私は○○だけど許してね」というニュアンスが漂うのを避けられないのではないかと思うからだ。
具体的には…?
たとえば「私は年齢的に最近のインターネット事情がわからないのですが…」とか「この分野は勉強不足でわからないのですが…」などだ。
文章に書いただけだと自虐ネタ感が薄いが、これらの言葉を笑いを誘う雰囲気で発すると自虐ネタになり得ると思う。
この場合、自虐ネタを使う人の心理は「僕のこの弱点を笑いのニュアンス無しで責めるのは止めろよ」なのではないかと思う。
もっと質の悪い場合で言うと「それに関してはわからない・知らないのが普通なのに、あなたは妙に詳しいようですね」という自虐ネタに見せかけた相手への攻撃である場合すらある。
どうなんだろう。それはチョッピー個人のうがった見方なんじゃない?
その可能性はもちろんある。もちろんあるが、上に書いたタイプの自虐ネタも確実に存在するとは思う。そのようなタイプの自虐ネタは使わない方が良いと思う。
言い訳的な自虐ネタの場合は「いやいや、そのくらい努力して解決しろよ」と思われるだけだし、相手への攻撃の場合は単純に不快になるだけだ。端的に言ってこのような自虐ネタはつまらないのである。
僕の個人的な考えに過ぎないが「笑い」は、その場にいる人を楽しくさせてこそ価値があると思う。
とはいえ、今まで書いてきた通り、「笑い」とは、本質的に攻撃性を含む行為だとも思う。なので、それを使って万人を楽しい気分にさせるのは、おそらく難易度がとても高い。でも、だからこそ、それに挑戦する価値があるのではないだろうか。
少なくとも、それを用いて、自分のいたらなさをごまかしたり、ましてや他人を責めるツールとして活用するのは、それ自体の価値を歪める好ましからざる態度なのではないかと僕は思う。
もちろん、会話の中で自虐ネタを放ちたくなる瞬間はある。そんな場合には、一瞬だけ「この自虐ネタは笑いの価値を貶めてはいないか?」と自問してみたいと思う。
本日の締め
今回は僕の考える「笑いの価値を下げないための考え方」についてのお話を書いてみました。
「笑い」は極めて高度な社会的な行為だと思います。使い方によっては人を楽しく出来ますが、使い方を間違うと、とんでもない結末を招く可能性も高い。
「笑いはとても扱いの難しい高度なコミュニケーションツール」という意識をもって扱うのが良いのではないかと、個人的には考えています。
本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。
こんなことを言っている僕ですが、個人的には「攻撃性の高い笑い」は大好物だったりします。「お笑い」や「格闘技」のような「関係各位の合意の上での攻撃性」はエンタメとして強い。