こんにちは。どこかのタイミングで「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を観たい、チョッピーです。
エッセイ・文学・芸術
皆様が今、お読み頂いている『Daily Choppy !』はコンテンツメインページにも書いている通り『ふらとぴ編集部チョッピーが毎日書く何か。エッセイのようなモノを目指してい』るコンテンツである。
「エッセイのようなモノを目指している」というスッキリとしない、奥歯にものが挟まったような言い方をしているのは「エッセイとハッキリ言えるモノを書く自信がチョッピーに(少なくともコンテンツ企画時には)なかったから」だ。
エッセイとは
思索や意見、感想などを形式にとらわれず、簡潔に述べた文学の一ジャンル。エッセイまたはエセーは日本語では一般に「随筆」の意味で用いられ、文学の一ジャンルとして確立している。
エッセイとは|コトバンク
上に引用したエッセイの説明文によればエッセイとは「文学の一ジャンル」らしい。では文学とはなんだろうか?
文学とは
文学についてのもっとも簡単な説明は、言語による芸術、「言語芸術」(ドイツの美学者たちの、いわゆるWortkunst)ということである。芸術とは、これももっとも簡単な定義では、形象的表現による作品、である。形象は、もともと形(けい)(かたち)と象(しょう)(すがた)を組み合わせてなったことばだが、個別的・具体的なすがたかたちのイメージとして表現されたものをいう。このような形象的表現を言語によって行うのが文学である。
文学とは|コトバンク
なるほど。ついでに芸術の意味も調べておこう。
芸術とは
本来的には技術と同義で,ものを制作する技術能力をいったが,今日では他人と分ち合えるような美的な物体,環境,経験をつくりだす人間の創造活動,あるいはその活動による成果をいう。
芸術とは|コトバンク
なるほど。芸術にはただの行為・成果物とは違い『他人と分かち合えるような』という条件がつくのだな。
ちょっといい?
なぁに?
今回の記事、いきなり引用が多すぎる! まさかこのまま引用文を並べるだけで終わるつもりなのか?
確かに多い。でも、引用はこれ以降は1つしか出てこないので今日のところはお許し頂きたい。
まだあと1つ出てくるのか…
うん。
芸術は爆発だ!
さて、今までの引用を簡単にまとめると「エッセイとは文学であり、文学とは言葉を使った芸術であり、芸術とは他人と分かち合える創作物やその行為」と言えそうだ。
ただ、これはあくまでも辞書的な表現。辞書的な表現は一般的なモノではあるが、必ずしも正しいわけではない(と僕は思っている)。
僕個人の解釈では「エッセイ」とは「事象に対してなにかしらの思想・心情を書いた文章であり、読んだモノの心を動かすべきモノ」となる。
辞書的な表現と何が違うの?
芸術に対する解釈が違う。僕は芸術を「(自分も含めた)誰かの心を動かすべきモノ」だと考えている。だから僕の解釈に従えば「作者を含めた誰の心も動かさないモノ」は、仮に創作物であったとしても芸術ではないし、それを作る行為も芸術ではない。それらはただの成果物であり、作業である。
逆に多くの人の心を動かさなくとも、誰か一人の心だけでも動かせられれば、それは(少なくとも僕にとっては)芸術である。仮に心が動いた人物がその作者であったとしても、それは芸術だ。
もう少し具体的に言うと?
たとえば…料理。料理を作った人にも食べた人にも「まぁ、美味くもなく不味くもなく…とりあえずお腹は満たされた」くらいの感想しか抱かれない料理は僕にとって芸術ではない。
しかし誰かに「なんだこれは! 美味すぎて気絶する!」だったり、もしくは「なんだこれは! 不味すぎて気絶する!」と思われた料理は僕にとっては芸術である。
さすがに料理で気絶はしないでしょう。服が爆発四散する事はあっても。
普通は服が爆発四散する事もないけどね。
爆発は論理的じゃなくてもいい
さて、ここで最初のテーマに話を戻そう。「チョッピーはエッセイを書く自信がない」というモノについてだ。
チョッピーは文盲なのかい?
いや、一応、僕も幸運な事に義務教育等を受ける機会はあったので文章を書く事は出来る。そのクオリティはさておき最低限の読み書きは出来るつもりだ。
じゃあなんでエッセイを書く自信はないの?
「事象に対する思想・心情を文章にしたためて、それで誰かの心を動かす自信」がなかったからだ。
僕はどうしても文章を書くときに「論理」に頼ってしまう。文章構成や記述内容自体を「論理的」に作りたくなってしまうのだ。
論理的なのはいい事なんじゃないの?
一般的にはその通り。でも、こと芸術においては話は別だ。僕は芸術においては必ずしも論理的である必要があるとは考えていない。「心を動かす条件」に「論理的であること」が必ずしも含まれているとは思えないためだ。
論理を超えた何かを掴みたい
論理とは何か。
論理とは
考えや議論などを進めていく筋道。思考や論証の組み立て。思考の妥当性が保証される法則や形式。
論理とは|コトバンク
今回最後の引用キタ!
うん。
それはさておき「論理」とは上の引用にある通り「筋道」である。人間は筋道の通った内容には納得せざるを得ない。そこで表現されている内容に心情的に共感できなかったとしても論理的に正しい内容には納得せざるを得ないのだ。それに反対する事は出来ない。なぜならばそれが道理だからだ。
それでも自分の意見を通したいなら「無理」を通すしかないね。「無理を通せば道理引っ込む」ってね。それを実際に行うと色々な問題も起こる可能性が高いけど。
つまり「論理的な文章」とは本質的には「心情的な理解が得られない可能性のある内容をムリヤリ納得させるための文章」なのだ。僕はそう考えている。
論理は「心情的な理解を得られない者のための武器」であり、それは「芸術」とは全く方向性の異なるモノだ。
僕の考えるエッセイの目的は「納得」ではない。「心を動かす」ことだ。そのために必要なモノは論理ではない。論理を超えた何かだ。
僕はそれを文章で実現する自信がない。ただし、諦めているわけではない。いずれ、(自分も含めた)誰かの心を動かす文章を書けるようになりたいと考えている。
だから『Daily Choppy !』は『ふらとぴ編集部チョッピーが毎日書く何か。エッセイのようなモノを目指してい』るコンテンツなのである。
本日の締め
今回は『Daily Choppy !』を題材に僕の考える「心を動かすために必要なモノ」のお話を書いてみました。
一般的に大学生以降に作る文章って、とにかく「論理的であること」を求められがちだと思います。多くの人は基本的に文章で誰かの心を動かす必要がないからです。
なので、ついつい「論理的である事が正しい」と思ってしまいがちなのですが、少なくとも「誰かの心を動かすことを目的とした文章」においては、その考え方は必ずしも正しいわけではないよなぁ…と感じています。
本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。
もちろん「論理的であること」を否定しているつもりは全くありません。「必要ではない」と言っているだけで「不要である」とは言っていません。何事も適材適所が大事ですね。