こんにちは。チョッピーです。
これは僕だけなのかもしれませんが「コミュニケーション」って「有限の何か」を消費して実施している気がしませんか? それはマスを対象にしたコミュニケーションもそうですし、そうではない1対1のコミュニケーション等でもそうなのではないかと思っています。
極端な話、永遠に誰かと会話をし続ける事って不可能なのではないか…という事を感じています。
これはなんというか、いわゆる「ネタ切れ」というモノとはちょっと違っていて…なんでしょうね、仮に話すネタはあっても「もういいかな」という感じになってしまう瞬間というモノがあるのではないかと思うんですね。で、これってコミュニケーションの対象がマスであろうが、そうでなかろうが、一緒だと思うんですよ。
例えば僕の場合で言うと本サイト(ふらとぴ)で計4つの連載を抱えており、さらにたまに単発記事も書いているため、日々、それなりの量の情報の発信をしています。さらにプライベートでの会話やSNSでのコミュニケーションとか、その他、業務上の打ち合わせなども含めると、毎日、結構な量・種類のコミュニケーションをしているのですね。
で、そうなると常に対応していかなければならない課題が「ネタ切れ」になってきます。
まぁ、極端な話、プライベートなコミュニケーションにおいては「ネタ=話す事が無いなら黙っている」というやり方でもいいのですけど、僕の場合はそうなると業務上、支障が出てしまいます。それはマズい。
なので、どうにかして、どこかから情報を仕入れてきて、それをなにかしらの「ネタ」に昇華させなければいけません。その方法はニュース記事を読んだり、SNSの投稿を読んだり、街を散歩したりと色々なのですが…その中のひとつに「誰かと会話する」というモノもあります。要は誰かと会話した事により仕入れた情報をネタとして活用する…という方法ですね。
これ、確かに色々な自分だけでは気付けない視点や、自分がまったく知らなかった情報を仕入れる事が出来て、非常に良いのですが…不思議な事に「誰かと会話をした直後」って、執筆作業が全然、進まないんですよね。書くべきネタは色々と仕入れているハズなんですが、なぜか手が動かない。不思議です。
ここまで書いていて早くも考えが変わってきたのですが、もしかしたら「コミュニケーションは有限の何かを消費している」のではなくて「情報の発信には、それに伴う満足感があり、それは人それぞれ許容量が存在する」のかもしれません。で、この満足感は「情報の受信」だけでは溜まっていかない気がするのですね。
なんでしょう、もしこの仮説が正しいのであれば、ある意味、コミュニケーションは食事と似ている部分もあるのかもしれませんね。食事も非常に楽しいモノですが、無限に食べ続けられるか…と言われると、そうではないですからね。ただ、食事は「何かを体内に取り入れている」のに対して「情報の発信」は「何かを体外に出している」わけなのですが。その代わりに溜まる「何か」がある気がします。この記事においては、それを「満足感」と表現してみますが…。
もし、日々の生活で「なにか満たされない気持ち」を感じている方がいらっしゃいましたら、ブログでもなんでもいいので「情報の発信」をしてみるといいのかもしれません。そうする事で、なにかしらの「満足感」を感じられる人もいるかもしれません。少なくとも僕は、結構、それを感じていますね…。
本日もふらとぴに訪問頂きありがとうございます。
少しでもお楽しみ頂ければ幸いです。