こんにちは。チョッピーです。
今回の記事について
今回はチョッピーが「新型コロナウイルス以後の表現」について考えた内容を語る随筆です。
文脈(コンテクスト)が変わった
北海道で1回目の緊急事態宣言が発出された頃からでしょうか。それ以前とは世の中の文脈…コンテクストが明確に変わった気がします。
コンテクストとは利用されるシーンによって様々な意味を与えられる言葉です。この記事におけるコンテクストは社会情勢・時代背景・文化…などの「物事に影響を及ぼす様々なモノ」という意味で捉えてください。
言葉や行動、世の中の全てのコミュニケーションはそれ単体では意味を持ちえません。コミュニケーションを行う人々に共通の認識があって、はじめて言葉や行動は意味を持ちます。
たとえば「shine」という4種類のアルファベットを使った文字列。これはコミュニケーションを行う人々に「英語」という共通の認識があれば「光る、輝く」といった意味を持つ言葉となります。一方「ローマ字」という共通の認識があれば「しね」という音をあらわす文字列となります。
仮に「shine」という文字列に対し「英語」という認識を持つ人が、「ローマ字」という認識を持つ人に向けて伝えてしまうと、少しやっかいな事になってしまうかもしれません。
ちなみに上で例に出したケースは超有名作品である「名探偵コナン」の「鳥取クモ屋敷の怪」というお話でも使われています。ご存じの方も多いのではないでしょうか?
「新型コロナウイルスの危機」という共通認識
最初の話に戻ります。北海道で1回目の緊急事態宣言が発出されて以降、日本におけるコンテキストに「新型コロナウイルスの危機」が追加されたように思えます。
もちろん、この危機をどれだけの深刻度をもって受け止めているかには人それぞれ別々のモノがあるでしょう。ただ、その深刻度がどの程度のモノであるにせよ、普通の社会生活を送っている人であれば「新型コロナウイルスの危機」という共通認識はインプットされているのではないかと思います。
この共通認識がある限り、全ての表現には次の様な意味がどうしてもつきまといます。
- 新型コロナウイルスの危機があるから
- 新型コロナウイルスの危機があるのに
たとえば「今日はみんなで集まって体育館でバスケをした」という文章。「新型コロナウイルスの危機」が共通認識になる前であれば、おそらく文章に書かれた以上の意味を与えられる事は無かったでしょう。しかし「新型コロナウイルスの危機」が共通認識になった現在においては、コミュニケーションの受け手は「新型コロナウイルスの危機があるのに」という意味を与えた形でこの文章を理解するのではないでしょうか。
新しい文脈を踏まえた表現が必要だと思う
現在、表現は非常に難しいバランス感覚を要求されている様に思えます。全ての表現に「新型コロナウイルスの危機」という言外の意味が与えられてしまう。
表現を行う者はそれを意識したうえで、自分が伝えたい内容が可能な限り相手に伝わるように努力しなければならない。これはなかなか大変だと思います。
しかしながら、環境の変化はいつも突然です。僕達は自分たちの意思や行動とまるで関係のないところで生じる変化に対しても、柔軟に対応していかなければなりません。
個人的には「今は難しい時期だから表現はやめておこう」ではなく「今は難しい時期だからこそ、表現を行ってみよう」という精神性で活動していきたいな、と思います。
今回の締め
今回は「新型コロナウイルス以後の表現」について考えた内容について書いてみました。
このような文脈の追加は今回の新型コロナウイルスに限らず、パラダイムシフトが起こる時には決まって起きるのだと思います。例えばインターネットの登場、9.11、東日本大震災…など。
表現は、その手段の形が変わらなくても、文脈の変化によって意味が変わります。そのダイナミズムを敏感に感じ取りながら、表現を楽しんでいきたいところですね。
本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。
今回の記事を書いてる途中、大学で習った言語学のシニフィアンやシニフィエ、記号論のコードなどの概念を思い出しました。人文科学って面白いですよね。