こんにちは。なにもわからない人、チョッピーです。
今回の記事について
今回はチョッピーが「人は見たいものしか見えていない」について考えた内容についてのお話です。
「ご相談させてください」に違和感を感じますか?
お仕事をしていると、必ず誰かに相談する必要が出てきますよね。会社員であれば物事を決める際に決裁権がある方への相談は必須でしょうし、フリーランスだとしても発注者への相談が不要なお仕事ってそんなに多くないのではないかと思います。
そんな時に、皆さんは相談相手になんと声をかけますか? 「相談させて頂きたい」でしょうか。あるいは「ご相談させてください」でしょうか。他のパターンもあるかもしれませんね。
さて、ここで僕が例として挙げた「ご相談」という言葉。皆さんはこの言葉に違和感を感じますか? 僕は感じるタイプです。
一般的に「ご(御)」は接頭語であり「丁寧の意味を表す敬語」とされています。接頭語かつ丁寧語なのですね。
接頭語とは
語構成要素の一。単独では用いられず、常に他の語の上について、その語とともに一語を形成するもの。語調を整えたり、意味を添加したりする。「お話」「こ犬」「御親切」などの「お」「こ」「御」の類
接頭語とは|コトバンク
丁寧語とは
敬語の一種。一般に,尊敬語,謙譲語と並んで敬語の3区分の一つをなすとされる。話者が話し相手に対して直接に敬意を表する表現をいい,特にデス,マス,古語のハベリ,ソウロウなどをさす。この点で,話題となって文中に現れた人物に対する敬意の表現である尊敬語,謙譲語とは性格を異にする。オ米,オ金などの「オ」のようなものも丁寧語と呼ばれることが多いが,これは必ずしも聞き手に対する敬意の表現ではないので,美化語などと呼んで区別する説もある。
丁寧語とは|コトバンク
一般的に自分の動作や自分自身に対して敬意を表す言葉は使いません。
使うとしたら完全にキャラ付けですね。「この俺様が負けるなんて!」みたいな。この場合は自分に対して「様」という敬意を表す表現を使って「不遜な人物」であるというキャラ付けをしているわけですね。ばいきんまんかな?
そのため敬語である「ご」を自分の動作である「相談」にくっつけると変な感じがする。少なくとも僕は。
しかしながら、上に引用した丁寧語の説明を参照する限り「お」や「ご」という丁寧語には敬意が含まれていないそうです。そのため「相談」という自分の行為に対して「ご」をつけても問題なし。
「敬意が含まれていない」のに「”敬”語」とはこれ如何に。ニホンゴムズカシイネー!
この違和感を正当化したい
僕は「ご相談」という言葉に違和感を感じます。その理由は上で説明した通りです。ですが、どうやらこの違和感の原因は「”ご”は敬語だから自分の行為につけるのはおかしいのでは」という思い込みにあったようです。「敬語と言えども敬意の含まれていない言葉は存在し、その場合は自分の行為につけても問題はない」という認識があれば、そもそも違和感を感じる事もなかったのかもしれません。
よく考えると「ご相談させてください」の「ご相談」に違和感を感じるなら、同様に「ご飯行きませんか?」の「ご飯」にも違和感を感じなければいけないような気もします。…うーん、でもご飯は名詞だからな…行為じゃないから…うーん。
やっぱり気持ちが悪い!
やはり僕にはどうしても自分が行う場合の「相談」に「ご」をつけるのは気持ちが悪いです。論理的に考えると「敬意の存在しない接頭語を自分の行為につけても問題ない」というのはわかるのですが、それでも…! この気持ち悪さをどうにかして正当化したい…!
なにか反証材料はないのか! 「丁寧語は敬語ではあるが敬意は存在しない」なんて情報、知りたくなかったわ!
確証バイアスの奴隷
今、僕はおそらくいわゆる「確証バイアス」というモノに囚われています。
確証バイアスとは
自分の願望や信念を裏付ける情報を重視・選択し、これに反証する情報を軽視・排除する心的傾向。
確証バイアスとは|コトバンク
このバイアスは至る所で見受けられます。特に政治的な問題の場合に顕著な気がします。最近、ホットなワードで一例を表すと「大阪都構想」なんて、それの最たるものかもしれませんね。
僕ことチョッピーは現在、大阪に住んでいます。ただし、大阪市民ではないため大阪都構想に対する投票権はありません。
意外と知られていない気がしますが、大阪都構想の住民投票を行う権利は「日本国籍を持つ大阪市内に住む18歳以上の人」にしかありません。
だから…というわけでもないですが大阪都構想に対しては、まぁ、人並み程度の関心しかありません。大阪は好きですが、大阪府出身でもないですし。そのため大阪都構想に関する議論は一歩引いた目線で見ています。
大阪都構想に限った話ではないですが、多くの政治的判断にはメリット・デメリット双方が存在します。(メリットしかない選択はそもそも政治的な問題にならないでしょう)2つの対立する政治的な案が存在する場合、そのどちらかを選択した方が総合的なメリットが多いか…を数字で論理的に計算するのは難しい場合が多いでしょう。そもそも「何をもってメリットとするか」の認識すら人によって千差万別です。
大阪都構想の場合でいえば「大阪市を4つの特別区に再編する」という内容をメリットと捉えるか、デメリットと捉えるかは人それぞれです。それぞれの陣営の主張を聞いていると賛成派は「再編による合理化」をメリットと捉えている人が多いようで、反対派は「行政区分としての大阪市の消滅」をデメリットと捉えている人が多いようです。
この状況において大阪都構想に賛成・反対のどちらに総合的なメリットが多いかを算出するのは不可能です。前者は経済合理性に基づいた確証バイアスにより大阪都構想に賛成しており、後者は情緒に基づいた確証バイアスにより大阪都構想に反対しているからです。メリット・デメリットを考えるための基準が違うのです。
なので、最終的には個人の好き嫌いで判断を決めるしかありません。というか、賛成派も反対派も最初から個人の好き嫌いに基づいて自分の意見を論理で補強しているだけなので、そうなるのが当たり前なのです。
人は好き嫌いを論理によって補強します。その反証となり得る情報は軽視・無視します。それは人に備わった確証バイアスという心理的作用の為せる業です。人は見たいものしか見ないのです。
「人は見たいものしか見ない」という言葉はユリウス・カエサルの「人間ならば誰にでも、現実の全てが見えるわけではない。多くの人たちは、見たいと欲する現実しか見ていない」という言葉が基になっているらしいですね。塩野七生さんが著書で紹介して有名になった言葉らしいです。
見たいものしか見ないなら、その根源はなんなのか?
「人は見たいものしか見ない」が真実だとすると、その「見たいもの」を判断している自分とは、一体、なんなのでしょうか。
僕は、人は情報や経験をインプットをするたびに、性格や行動様式が変化していくと思っています。でも、そもそも確証バイアスによりインプットの時点で情報の取捨選別が行われているのだとすると、そのバイアスを司っている自分は、いつ、どうやって形成されたのでしょうか。
生得的なモノなのでしょうか。生得的なモノだとすると一卵性双生児は確証バイアスも同じモノになるのでしょうか。もしくは自我が目覚める前の幼少期に触れたモノによって決まるのでしょうか。
僕には答えはわかりません。どうして自分はその情報を好み、それとは異なる情報を嫌うのか?
自分自身が一番、謎ですね。
本日の締め
今回は僕が「人は見たいものしか見えていない」について考えた内容についてのお話を書いてみました。
何の結論も出ていないお話で少し申し訳ない気持ちになってきました。人間って不思議ですよね。僕は人間の事が本当に何もわかりません。
本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。
発達心理学に関する勉強でもしてみようかなー。