こんにちは。甘酒を飲みながら書いています、チョッピーです。
ふらとぴのコンテンツ掲載基準
ふらとぴには「コンテンツ掲載基準」がある。
- 特定宗教・政党に関する応援・批判記事の掲載は禁止とする
- 差別的な内容の記事は掲載禁止とする
- 他者の著作権を侵害する記事は掲載禁止とする
- その他、法に触れる記事や内容面で不備がある記事の掲載は禁止とする
- 歴史や科学的事実を基に作成した記事は、引用文献や参考文献等を必ず記載すること
これは『Daily Choppy !』でも何度か書いているし、クリエイター募集のページに直接掲載している内容でもあるのでご存じの方もいらっしゃるかもしれない。
そういうのは気にせずに何度でも再掲するのが僕の方針です。同じ内容でも何回もお伝えした方がわかりやすいですし。
さて、ふらとぴにはふらとぴクリエイターがコンテンツを作った後に、上に挙げた掲載基準と照らし合わせて問題がないかをチェックする工程(レビュー)がある。ふらとぴに掲載されているコンテンツ数は現時点(2021年3月20日現在)で900を超えるのだが、その全てがこのチェックを通っている。
上の掲載基準を読んで頂ければわかるかもしれないが、ふらとぴ掲載基準には「面白さ」という観点でのチェック項目はない。「面白さ」は主観的なモノで「チェックした側の意見が正しい保証がない」という考えが僕達にあるためだ。
ただ、コンテンツを作った人が望む場合は「掲載基準とは関係のない、チェックする側の意見」もお伝えしている。
お伝えしているのだが…最近、僕はこれに難しさを感じている。上にも書いた通り「チェックした側の意見が正しい保証がない」ためだ。言い換えれば「面白さ」は「正解のない世界」だからだ。
正解のある世界
過去、僕はシステムエンジニアとして働いており、その時にも他人の成果物のレビューはしていた。具体的にはシステム設計書・プログラム・テスト計画・テスト結果などの成果物のレビューをしていた。
これらのレビューにおいては明確な「正解」がある。これらの成果物には「作るべきシステム」に応じて書くべき内容と書いてはいけない内容が明確に定義されるからだ。
書くべき内容が書かれていなければそれを指摘すればいいし、書くべきでない内容が書かれていたら、同様にそれを指摘すればよい。
これはこれで簡単ではないが「目指すべきモノ」に正解があるので、それさえ見えていれば指摘はできる。また、指摘の結果が正しいのか否かも「システムの稼働結果」をみれば一目瞭然である。
指摘の結果が正しくなければ絶望の嵐が吹き荒れます。最悪、人が死ぬ。
正解のない世界
一方、コンテンツには正解がない(ように思える)。同じコンテンツを味わってもそれを楽しめるか否かは人それぞれ。どんなに名作と言われる作品であっても、必ず批判はついて回る。
誰かが好きな表現やストーリーは、誰かの苦手な表現やストーリーである。「万人が好むモノ」は存在しない。
「万人が好むモノ」が存在しない以上、コンテンツの「面白さ」に関しての指摘は全て「僕個人としてはこうした方が良いと思う」というモノにしかならない。だから、おそらくコンテンツに対する僕のレビュー結果は、他の人のそれとは異なるモノになるハズ。
また、仮に「自分にとって正解」と思われるコンテンツを作ったとしても、それが本当に「正解」だったのかを確かめる方法も限られる。仮に「多くの人に反応頂けるコンテンツが正解」だと定義したとしても「多くの人に反応頂ける」ためにはコンテンツ以外の様々な要素も関わってくる(と思う)。作った人のネームバリューとか、発表する媒体の色とか。
唯一、確実に確認できる「正解」は「自分にとって面白いか否か」だけなのではないだろうか。
他者が作ったコンテンツにおける正解とは?
「正解」を確認する方法が「自分にとって面白いか否か」だけだとすると「面白さ」を求めるレビューの基準は「自分にとっての面白さ」だけになってしまう。
ただ、それを基準に「他者が作ったコンテンツ」に指摘を行うのは適切なのだろうか? おそらくそのコンテンツを作った人も「これが(自分にとって)面白い」と考えて作っているハズ。それに対して「いや、こう変えるべきだ。だってそちらの方が僕にとっては面白いから」と指摘するのはどうなんだろう?
事と次第によっては戦争が勃発するぞ
そうなんだよね…。
ここまで書いていてハッと気づいた。もしかすると「正解のない世界におけるレビュー」とは「(正解のある世界のレビューにおける)確実な正解」を探す作業でも、「僕にとっての正解」を押し付ける作業でもなく「コンテンツを作った人と、それを確認する人にとっての正解」を探る作業なのではないか?
この考えが正しいとするならば、「正解のない世界におけるレビュー」は「品質の確認作業」ではない。むしろ「コンテンツ製造作業工程のひとつ」と捉えるのが正しいと言えそうだ。
「正解がある世界」におけるレビューは成果物と正解を照らし合わせて「丸付け」をする作業だ。誰がその成果物を作ったか、誰がそのレビューを行ったかは関係ない。そこに人格は不要。(だからシステム業界において人間は「人月」という単位のただの純粋な労働力として数えられる)
対して「正解がない世界」におけるレビューは成果物を媒介にした「僕とあなたが一緒に楽しめるモノはなにか」を探すためのコミュニケーションだ。そこでは「僕とあなた」の人格が重要となる。
僕はシステムエンジニアという「正解のある世界」を経験してから「ふらとぴ事業」という「正解のない世界」に働く場所を変えた人間だ。それぞれの世界におけるレビューの性質の違いをしっかりと認識したうえで日々のお仕事をしていきたいと思う。
本日の締め
今回は僕の考える「正解のある世界」と「正解のない世界」におけるレビューの性質の違いについて書いてみました。
とはいえ僕は「ふらとぴ事業」という「正解のない世界」でお仕事を始めてから、まだ2年弱の経験しかありません。なので、ここで書いた「正解のない世界におけるレビューの性質」が本当に本質を捉えているモノであるのかはわかりません。
とりあえずは「これが正しいはずだ」と思い込んでやっていきたいと思います。
本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。
土日なのにあんまり軽くない記事を書いちゃったなぁ。