こんにちは。チョッピーです。
「無敵の人」というネットスラングがありますね。
「失うものが何もない人」の事を指すのですが…これらの人々は失うものが無いからこそ無敵であり、極論、死刑さえ恐れない精神性を身に着けてしまう事があるとされています。これらの人々を救うための現実的な施策としては今以上の社会的な制度の充実(運用も含めて)が不可欠である事は論を俟たないと思うのですが、今時点で彼らを少しでも救う材料は無いのでしょうか。
個人的にはあると思っています。
そもそも彼らは何故、事件を起こす事があるのでしょうか?
(念のためですが、ここでは「無敵の人、全てが事件を起こす」とは言っていませんし「無敵の人以外は事件を起こさない」とも言っていません。「事件を起こしてしまう無敵の人」にターゲットを絞って記載しています)
「無敵の人」は「何も持っていない」のですから「何かを守るため」に事件を起こすのでは無いでしょう。であれば「何かを得るため」でしょうか? しかしながら「無敵の人が起こした」とされている事件を参照する限り、彼らが何かを得るために事件を起こしたとも考えづらいです。
(「無敵の人」はあくまで俗称であり「この事件の犯人は無敵の人」と公式に定義づけられているモノが存在するわけではありません。よって「無敵の人が起こした事件」も厳密には定義づけられていたりはしません。そのため、この文章においても「この事件は無敵の人が起こしたものである」と指定はしません。)
結局のところ彼らは「自暴自棄」になっているからこそ「無敵の人」なのであり、その自暴自棄の根本的な原因は「見捨てられ感」にあるのではないでしょうか。そもそも「何も失うモノが無い」と言いますが、本当は彼らにも保有しているモノはあるのですよ。それは自分自身の命です。ですが、彼らはそれに価値を見出していない。つまりは自暴自棄になっている。だからこそ「何も失うモノが無い」と誤認しているのです。
彼らは全てに見放されています。
社会からも見放されているし、友人・知人、果ては肉親からも見放されています。
実際に見放されているかどうかとは関係なく、彼ら自身は少なくともそう感じているのでしょう。
ここで、彼らに「あなたは見放されていない」と伝えたところで、彼らには何も響かないでしょう。それに「人は愛されて生まれてくる」なんて言葉もありますが、現実的には悲しい事ですが「親にも愛されずに生まれてくる人」は存在します。 そうでなければ生まれてすぐの赤子が生みの親によって殺害される事件なんて起こらないでしょう。
それでは、そんな人々はやはり「無敵の人」になるしかないのでしょうか?
僕は、その抑止力となり得るモノはこの世に存在していると思っていて、それは「作品」だと思っています。
この世には不思議なもので「不特定の人物に向けた愛」を創り出すクリエイターが存在します。
もちろん彼らも100%善意で作品を創り出しているわけではないかもしれません。「生計を立てるために作品を創り出している」という動機も大いにあり得るでしょう。
しかしながら「生計を立てる」ためであれば、他の方法もあるわけで、いや、むしろ「他の方法」の方が実現可能性は高い場合の方が多いでしょう。「ミュージシャン」や「ライター」や「漫画家」や「映画監督」になるよりも「一般企業のサラリーマン」になる方が容易で、所得も多くなるパターンの方が多いと思います。
それでも、いつの時代も一定数は「クリエイターになる道」を選ぶ人がいるわけです。
その人々に共通する想いは「何かを誰かに伝えたい」というモノだと思います。
「伝えたいモノが全くないクリエイター」は存在しないでしょう。何かを創る以上は、必ずそこにメッセージが存在するハズです。(「何も伝えない」という逆説的な作品にも「何も伝えないことを伝える」というメッセージが存在します)
「愛」とは「対象に対する関心」だと思います。
「不特定の人物に向けたメッセージ」を作りだすクリエイターが存在する限り、この世の全ての人間は、その人に愛されています。
「誰にも関心を持ってもらえていない」と自暴自棄な気持ちになってしまった人は、是非、なんでもいいので「作品」を味わって頂きたい。そこには、あなたに向けた「愛」が詰まっている。それを感じられる事さえ出来れば、その時、あなたは「無敵の人」ではなくなるハズです。
この文章も、いつの日か、どこかで苦しんでいる「無敵の人」に届けばいいな、と思いながら書いています。
本日もふらとぴに訪問頂きありがとうございます。
少しでも楽しんで頂ければ幸いです。