こんにちは。なぜなぜ分析好き、チョッピーです。
チョッピーのちょっとした疑問
緊急事態宣言とか、変異型とか、インドの状況とか、大阪の医療の状況とか、とにかく最近は新型コロナウイルス関連の話題が多い。目をつむっていても耳を塞いでいても、それらのニュースがインプットされてしまうくらいに多い。
誇張です。実際には目をつむり耳を塞げばニュースはインプットされません。それくらい情報過多である…と言いたいのです。
本連載『Daily Choppy !』でも、最近は冒頭にその話題を持ってくるケースが増えている。僕自身もそれに関心があるからだ。なんと言っても僕は緊急事態宣言対象地域の大阪に住んでいるので。
ただ、もちろん世の中には新型コロナウイルス以外のニュースもある。たとえばオリンピック。
実はオリンピックの開会式は7月23日(金)に行われる予定。つまり本記事掲載日(5月5日)から2か月強…具体的にはあと79日でオリンピック開催の日となるのだ。
ちなみにパラリンピックは8月24日(火)に開会予定です。
個人的にはあと2ヶ月強でオリンピックが開催予定なんて完全に忘れていた。
実は聖火リレーも粛々と進んでいる。どうやら本記事掲載日(5月5日)は熊本で聖火ランナーが走る予定らしい。
ただ、今回のオリンピックには色々と課題も多い。やはり新型コロナウイルスの影響は免れない。正直、本当に開催されるのかどうかすら僕にはわからない。
新型コロナウイルス以外の要因でも今回のオリンピックはゴタゴタが続いた。特に女性蔑視問題が2件続いたのは世間に与えたインパクトが大きかったと思う。
一件目は当時の東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長であった森元総理の発言および、その後の辞任。
二件目は開閉会式の総合企画・エグゼクティブ・クリエイティブ・ディレクターであった佐々木宏氏のLINEでの女性タレントの容姿を侮辱するかのような企画案および、その後の辞任。
どちらもその問題の詳細をここで語る事はしない。気になる人は関連ワードで検索してみて欲しい。すぐにその全貌は明らかになるハズだ。
これらの問題の悪質性は語るまでもない。ただ、個人的には後者の件に関して少し疑問に感じた点がある。
もちろん「女性タレントの容姿をイジるネタの何が悪い」などと言うつもりはないので誤解しないで頂きたい。この件は道義的に許されざる問題である。それは間違いない。
本当に誤解されたくないので太字で協調しておきます。
ただ、この件が道義的に問題があるとすると「容姿イジり」の他にも道義的に問題だとされるモノはあるのではないだろうか。
具体的に言うと格闘技だ。格闘技は道義的には問題ないと言えるのだろうか?
容姿イジりが問題視されるのであれば同様に格闘技が問題視されても不思議ではないのでは? そうならないのは何故なのだろうか? その違いはどこにあるのか?
僕はここに疑問を感じたのだ。
「容姿イジり」の悪質さ
「格闘技が道義的に問題がある? そんなワケないじゃん。何言ってんの?」と感じられた方もいらっしゃると思う。僕も格闘技は道義的に問題は無いと思っている。
では、なぜ僕は上に書いたような疑問を感じたのか。
それは「女性タレントへの容姿イジり」と「格闘技」に「合意の上での暴力」という共通点を感じたためだ。
基本的に「タレントに対する容姿イジり」は(それを受ける対象者の性別とは関係なく)合意済みのショーとして存在する。(実際に問題視されたオリンピックの開会式の企画案は、まだ「企画案」だったため「合意済み」ではなかったのだと思うが)
容姿をイジる側も、イジられる側も、それをエンターティナーの業務として行ったり、受け入れたりしている。そして、彼らはその対価としてギャラと呼ばれる報酬を得ている。これは両者の合意が存在するからこそ成り立つ業務である。
だからこそ「タレントに対する容姿イジり」は「法的に問題のある行為」ではなく「道義的に問題のある行為」とされているのだと思う。
「タレントに対する容姿イジリは、仮に両者の合意の上だったとしても、法的にも問題がある行為である」との意見もあり得るのかもしれません。ただ、実際にそれで逮捕されたり訴えられたりした事例を僕は寡聞にして知りません。そのため、ここでは「法的には問題のない行為」と扱わせて頂きます。
少し脱線するが、この観点から考えると「ギャラの発生しない容姿イジり」は議論の余地なく「道義的にも法的にも問題のある行為」である事がわかる。そこには「両者の合意」が存在しないからだ。
「でも、昔はそんなの誰も問題視してなかったよ。コミュニケーションとして成立していたハズ…」という反論もあるかもしれません。
その反論は間違っている(と僕は思う)。何故ならば、それが問題視されない場合は単純に「イジられた側」が寛容な精神で「イジった側」を許していたからにすぎないからだ。
「容姿イジり」は侮辱であり、侮辱は刑法第231条で禁じられている犯罪である。かつ、侮辱罪は親告罪。
侮辱罪とは
事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱した者は、拘留または科料に処せられる(刑法231条)。名誉に対する罪の一種。本罪は親告罪である(同法232条)。
侮辱罪とは|コトバンク
親告罪とは
被害者または法律の定める者の告訴がなければ検察官が起訴できない犯罪。
親告罪とは|コトバンク
親告罪である限り「イジられた側」が訴えない場合、問題視はされない。「昔」はそれをいい事に「合意のない容姿イジり」という犯罪行為がのさばっていただけである。
話を戻す。
「タレントに対する容姿イジり」は(基本的には)両者の合意の上での侮辱でありショーである。そのため、そこで行われる侮辱という名の暴力は犯罪としては扱われない。犯罪としては扱われないが、暴力ではあるため道義的には問題視される。
侮辱のような「物理的な力を伴わない精神的な暴力」を「暴力」として捉えるかどうかは議論があるかもしれません。ただ、内閣府の男女共同参画局の「暴力の形態」のページには「精神的なもの」として『心無い言動等により、相手の心を傷つけるもの』という記述があります。本記事でもこちらに倣い「侮辱も暴力である」という前提で話を進めます。
格闘技は悪質とはされていない
一方、格闘技はどうか。格闘技も間違いなく「両者の合意の上での暴力」が展開されている。
ボクシングにおけるジャブもストレートもフックもアッパーも、ムエタイのパンチもキックも肘打ちも膝蹴りも、柔道における投げも寝技も、全て暴力である。
しかもこれらは侮辱のような「精神的な暴力」ではない。「物理的な破壊力」を伴う、非常にわかりやすい暴力である。それでも、合意の上での行為なので犯罪ではない。
ただ、「タレントに対する容姿イジり」のように「犯罪ではないけれど暴力ではあるため道義的には問題視されている」のかと言われれば、そうでもない。
「日本プロボクシング協会の会長が、ボクシングの試合を計画した事による道義的な責任を取るために辞任した」と言った話を僕は聞いた事がありません。
何故だろうか。何が違うのだろうか。
「物理的な破壊力による暴力」の方が「言葉による精神的な暴力」よりも道義的に罪が軽いのだろうか。そんなバカな。
肉体的な損傷と、精神的な外傷という違いはあれど、それらはどちらも相手に害を与える行為には違いない。それにより罪の軽重が変わるなんて理屈は考えにくい。
原因は構造にある?
色々と考えていて、ふと思いついた。
「タレントに対する容姿イジり」と「格闘技」では決定的に違う点がある。構造だ。
構造?
そう。それらの行為が行われている構造が違うのだ。
前者は「イジる側とイジられる側」という構造の上で行為が行われる。「加害者と被害者」と言い換えても良い。「容姿イジり」は常に「加害者から被害者への一方通行」で行われる。両者は「容姿イジり」が行われる場において「対等ではない立場」を演じている。
対して後者は「暴力を行う側と暴力を受ける側」が不定である。両者ともに相手に対して暴力をふるうし、ふるわれている。「暴力」は常に双方向で行われる。両社は「格闘」が行われる場において「対等な立場」である。
これが「タレントに対する容姿イジり」と「格闘技」の「道義的な罪の有無」を分ける決定的な違いなのではないだろうか。「精神的な暴力だから」とか「物理的な暴力だから」とかは関係ない。
「加害者と被害者」という構造になっているから、僕達はそれに対して「道義的に問題がある」と感じるのではないだろうか。
どうなんだろう。根拠が薄い気がする…。
では、この説を補強する事例として「MCバトル(ラップバトル)」を挙げてみよう。
ラップバトルとは
一対一でラップの技量を競い合うこと。MCバトルとも言う。ラップとは、1970年代から80年代前半にかけてアメリカでアフリカ系のストリートミュージシャンらが生み出した表現手法で、リズミカルに韻を踏んで歌うのが特徴。言葉選びの妙やリズム感、長文で韻を踏むことなどが評価の対象となり、プロやアマチュアのラッパーらがその技術を路上や学校、ステージなどで即興で盛んに競い合うようになった。21世紀初頭からはトーナメント式の大会も多く催されている。勝敗は数人の審査員が決める場合と、聴衆の投票で決定する場合とがある。
ラップバトルとは|コトバンク
MCバトルにおいては対戦相手に対する言葉による攻撃・皮肉・批判が飛び交う。
そもそも「相手を批判する・相手に悪口を言う」という意味の「disる」という新語(?)もアメリカのヒップホップ・ラップの「disrespect」から来ている。そのくらいラップにおいては対戦相手を言葉で否定する文化が定着している。
論より証拠。例としてMCバトルの有名な動画を紹介する。
こちらの動画ではお互いがお互いを(合意の上で)罵り合っている。つまり「言葉による精神的な暴力(とみなそうと思えば見做せる可能性のあるモノ)」が飛び交っている。
だが、こちらの動画の勝負を始め、MCバトルは社会的に「道義的に問題あり」とはされていない。
これもMCバトルが「両者が対等」という構造の上で行われているからではないかと思う。
やはり「タレントに対する容姿イジり」が「道義的に問題」だとされる本質的な理由は「加害者と被害者という構造を肯定しているところ」にあるのではないだろうか。そのため、その「芸」は観る者の尊厳を傷つけてしまうのだ。
この推測が正しいとすれば、これからの社会では「タレントに対する容姿イジり」に限らず「加害者と被害者」という構造を持つモノは「合意の有無」等には関係なく、全て「道義的に問題あり」とみなされるようになっていくのかもしれない。
それを受け入れるにせよ、反発するにせよ、なにかしらの表現活動を行う者は「表現の構造」について敏感になった方が良いのかもしれない。
本日の締め
今回は僕の考える「容姿イジりが(たとえ合意の上であろうと)道義的に問題ありとされる理由」についてのお話を書いてみました。
かなり長々と書いたのですが、実は今回の記事の結論には欠点があります。今回の結論だけでは『「被害者と加害者という構造」に問題があるとするのであれば「殺人」などの「犯罪を取り扱う表現」は全て「道義的に問題あり」とされるハズなのでは?』という質問に対して答える事が出来ないのです。
「殺人」などの「犯罪を取り扱う表現」は「道義的に問題がある」が、今はまだ社会的な認知がされていないだけなのか…。もしくは「殺人」などの「犯罪を取り扱う表現」は「道義的に問題はない」のか…。今のところ僕には回答が出せていません。
この件に関しては、また、考えがまとまった時に書くかもしれません。書かないかもしれません。
なんとなく現時点では「その表現が、その構造を肯定的に捉えているか否か」や「その表現に不快感を感じる人の総量」などが関係してくるのではないか…とボンヤリと考えています。
本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。
「容姿イジり」、ダメ、絶対! (自虐ネタも傷つく人がいるのでしない方がいいよ)