こんにちは。明日大好き、チョッピーです。
ふと思い出した
ちょうど1年くらい前に「行動経済学は死んだ」という言葉が一部界隈を騒がせていた。
行動経済学とは経済学と心理学を融合させた学問です。その特徴は標準的な経済学と異なり、経済主体である人間を「必ずしも合理的な選択を行う存在ではない」と定義している点にあります。
この騒動の震源地はウォルマートのJason Hreha(ジェイソン・フレハ)さんという方の「The death of behavioral economics」というタイトルの記事。直訳すればそのまま「行動経済学の死」だ。
僕の解釈でこちらの記事の内容を要約すると「行動経済学なんて役に立たないぜ。その研究結果は再現性も疑わしいし、現実に与える影響も驚くほど小さいのだ」となります。
なお、もっと詳細な解説を知りたい方は元大阪大学大学院准教授で現在「やさしいビジネススクール」を運営されている中川さんの解説記事があるので
こちらをお読みください。
僕の解釈でこちらの記事の内容も要約すると「行動経済学に限らず、そもそも社会科学というのはそういうモノ」となります。
親の仇かのように
行動経済学が死んだのかどうかは僕にはわからないが「再現性が疑わしい」という観点から言うと、ことわざなんか、その最たるものだよなぁ…と常々、思っている。
そもそもことわざは再現性なんか保証してないよ。
いや、そうなんだけど…。
それにしてはことわざって教育的見地からの影響が大きすぎるんじゃないかな…と思っていて。
たとえば次に挙げることわざなんかは、再現性が不確かなクセに「道徳的に望ましい態度」として教育の場で利用されがちな気がする。
- 悪銭身につかず
- 残り物には福がある
- 石の上にも三年
- 急がば回れ
- 一事が万事
- 魚心あれば水心
- 亀の甲より年の劫
- 継続は力なり
- 虎穴に入らずんば虎子を得ず
- 好きこそ物の上手なれ
- 情けは人の為ならず
- 二兎を追う者は一兎をも得ず
- 瑠璃も玻璃も照らせば光る
こんなのね、全部ウソですよ。
悪銭で私腹を肥やしている人なんて無数にいるし、残り物は大抵ゴミだし、石の上に三年いたところで成功する保障なんて無いし、回り道は単純に遠いだけの場合も多いし、一面で全てを判断されちゃたまらないし…
いや、もういいよ。どうした? ことわざに恨みでもあるのか?
いや、そんな事はないのだけれど。
The smell of …
特に僕が本当に教育的に良くないと思っているのは「石の上にも三年」とか「継続は力なり」とかの「続ければ成功出来る」という内容の言葉だ。
なんでよ。スキルの向上に継続的なトレーニングが必須なのは確かだろうし、それによって成功できることもあるでしょうよ。「成功」の定義が何かはさておき。
そう、それは基本的に僕も否定しない。
僕が「いかがなモノか」と思っているのは「さておき」とされた「成功の定義」についてだ。
?
つまり…「成功の定義」に「他者からの評価」が関わる要素を入れた瞬間に「石の上にも三年」だとか「継続は力なり」などの言葉は全てウソと化すのだ。
なぜならば、当然ながら「他者からの評価」の決定権は「他者」にある。
そこに「自己の努力」はクリティカルな影響を与えられない。
それをあえてごまかしたまま使われる「石の上にも三年」や「継続は力なり」などの言葉には…僕はどうも不誠実な香りを感じてしまう。
そう、それはドン・キホーテにも売られていないのに、不思議と世の中には溢れている魔性のフレグランス…。
ちょっと、その表現はよくわからないけど。
ココロオドル
もちろん僕は「石の上にも三年」とか「継続は力なり」とかの言葉自体を否定しているわけではない。
「成功の定義」によっては、これらの言葉は本当に正しいモノだと感じている。
実際、チョッピーは前職の会社にも11年間勤めていましたし、今のお仕事も3年以上継続してますからね。
そう、僕はこれらの経験から「継続」には「取り組んでいるモノに対する自分の認識の変化」を起こす効果があると思っている。
だから、たとえば『Daily Choppy !』第1151回 みたいな内容の記事も書けた。
この記事は間違いなく、今のお仕事を始めた直後の僕には書けなかっただろう。
僕は『Daily Choppy !』を10年間書き続ける事をとりあえずの目標に定めている。
あと7年。
その頃、僕は、どんな記事を書いているのだろう?
今は全く想像も出来ないが、楽しみである。
本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。
ことわざって心理学とかの仮説に使えそうですよね。