【Daily Choppy !】第702回:サブスク時代のコンテンツ消費法

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こんにちは。作品大好き、チョッピーです。

サブスク時代のコンテンツ消費法
サブスク時代のコンテンツ消費法

作品を鑑賞すること

なにかしらの作品の楽しみ方には「鑑賞」と「それ以外」の2通りがあるのではないかと思う。

鑑賞とは

芸術作品などを見たり聞いたり読んだりして、それが表現しようとするところをつかみとり、そのよさを味わうこと。

鑑賞とは|コトバンク

上に引用した鑑賞の定義はコトバンクに掲載されているデジタル大辞泉のモノだ。

言葉とは多義的なモノなので、辞書的な意味が必ずしも正しいとは限らない。ただ、「鑑賞」に関しては、僕の認識と上に引用した辞書的な意味は一致している。

この文章では「鑑賞」を上に引用した定義で使いたいと思う。

僕は、この定義における重要な点は『それが表現しようとするところをつかみとり、そのよさを味わうこと』の部分だと考えている。つまり「鑑賞」とは単純に『芸術作品などを見たり聞いたり読んだり』するだけの行為ではないのだ

鑑賞者は、それを行った上で、鑑賞対象の作品に制作者が込めた「意味」を読み取らなければならない。さらに、その意味を解釈し、味わわなければならない。

言い換えよう。

なにかしらの作品を「鑑賞」しようとする者は、その作品の鑑賞後には、その作品を鑑賞する前の自分とは違った自分になる覚悟を持たなけれならない。

何故か。およそ作品と呼ばれるモノには全て、制作者のなにかしらの主張が込められているからだ。(それを制作者自身が意識しているかしていないかはさておき)

それは政治的なモノかもしれないし、自然の美しさを伝えるモノかもしれないし、人間の営みを称えるモノかもしれないし、はたまた破滅的で露悪的で眼をそむけたくなる程に下劣なモノかもしれない。もしかすると「主張など無い」という主張かもしれない。

「作品に込められた意味を読み取り、解釈し、味わう」とは、自分の中に上に書いたような様々な他者の主張を取り込む行為と言える。

それが鑑賞前からすでに自分の中にあるモノの場合、鑑賞者は幸いだ。鑑賞前後で鑑賞者の心身には取り立てて大きな変化は起こらないだろう。

チョッピー
チョッピー

あんまり目新しいテーマの作品じゃなかったなぁ…

などと独りごちて「パッとしない作品だった」とSNSにでも書き込めば、それで鑑賞は終了だ。

一方、作品に込められた主張が自分の中になかった場合、これは一大事である。

その主張が鑑賞者の生来の特性と方向性を同じくする場合、鑑賞者はその作品の主張に大きく賛同する事だろう。作品や制作者のファンとなる可能性もある。

反対にその主張が鑑賞者の生来の特性と方向性を異にするモノだった場合、これはこれで大変である。鑑賞者はその作品に対して不快感を感じるだろう。場合によっては作品や製作者のアンチと化してしまうかもしれない。

いずれにせよ、芸術作品に込められた主張が自分の中になかった場合、鑑賞者はもう、作品鑑賞前の自分には戻れない。

「他者の主張」という異物を読み取り、解釈し、味わってしまったからだ。「鑑賞」にはそんなリスクが伴う。逆に言えば、ここまでしなければ「鑑賞」とは言えないのだ。

作品を鑑賞以外の方法で楽しむこと

さて、では「それ以外」の楽しみ方とは一体、どの様なモノなのだろうか。

答えは簡単、「芸術作品などを見たり聞いたり読んだりするだけ」の楽しみ方がそれである。つまり、その作品に込められた意味を解釈し、味わう工程を放棄した楽しみ方だ。

正直言って、多くの作品はこちらの楽しみ方をされている場合が多いのではないだろうか。かくいう僕も普段はこちらの方法で、様々な作品を楽しんでいる。

具体例を挙げよう。僕は作業中にかなりの頻度で YouTube で音楽を聴いたり、Amazon Prime video で映像作品を観たりしている。

最近は米津玄師の『Pale Blue』や

BUMP OF CHICKEN の『なないろ』や

Creepy Nuts の『合法的トビ方ノススメ 』などをよく聴いている。

これらの作品はどれも鑑賞に堪えるモノであるが、これらを僕は鑑賞用ではなく「作業中のBGM」として活用している。

チョッピー
チョッピー

もちろん作業をせずにキチンと鑑賞する場合もあります

全ての作品を鑑賞しなければいけないわけじゃないよね

基本的に作品に対する態度としては「鑑賞」が是とされる場合が多いと思う。特に学校教育の場などでは「鑑賞」を前提に作品が提供される場合が多いのではないだろうか。

チョッピー
チョッピー

音楽の授業や美術の授業などでの作品鑑賞はまさに「鑑賞するための知識・スキルの獲得」や「鑑賞の結果としての成長」などを目的にされているのではないでしょうか。

確かに教育という観点からは作品は鑑賞すべきなのだろう。上に書いた通り鑑賞は自分自身の変化、言い換えれば成長を伴う可能性の高い行為だからだ。

ただ、個人的には別に全ての作品を鑑賞しなければいけないわけではないと思っている。上に書いた「それ以外」の楽しみ方にも価値はある。

「それ以外」の楽しみ方は生理的な快感をもたらしてくれたり、苦痛の軽減に役立ったりするのだ。

楽しみ方を変えれば価値も変わるかも

それに、正直なところ全ての作品が鑑賞に堪えるクオリティ・メッセージ性を持っているわけではない。「鑑賞」という楽しみ方を前提に評価すると辛口の採点をせざるを得ない作品は沢山ある。

チョッピー
チョッピー

なお、上に挙げた3つの音楽作品は全て鑑賞に堪える素晴らしい作品なので誤解なきよう。チョッピーが鑑賞していないだけです。

ただ、その様な作品だとしても「それ以外」の楽しみ方をすれば一気に有益なモノとなる場合もある。

たとえば雰囲気づくりのためだったり、作業中の気晴らしのためだったり、一時の快楽のためだったり。

また、制作者側も「鑑賞に堪える作品にこそ価値がある」という価値観だけで作品作りに取り掛かると、全ての作品になにかしらの「意味」を込めなければいけなくなる。

「意味の薄い作品」であったとしても「それ以外」の楽しみ方が出来る作品であれば、消費者にとっては価値があると言えるのではないだろうか。

ある日の作業中に、決して「名作」とは評価できない映画を作業中に動画配信サービスで流しながら、僕はそんなことを感じた。

本日の締め

今回はチョッピーの考える「作品の価値の多様性」についてのお話を書いてみました。

世の中には色々な作品があります。なにかしらの作品を楽しんだ場合に「なんかこの作品、面白くないな…」と感じる事もあるでしょう。僕も頻繁にあります。

もしかするとそれは「制作者が想定した楽しみ方」とは違う楽しみ方をしているからなのかもしれません。そんな場合は、違った楽しみ方に切り替えてみるのも一考の余地があるかもしれません。

本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。

作品を作る場合にも「どういう楽しみ方をしてもらいたいか」を意識するのは大切なんでしょうね。

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