こんにちは。欲張り、チョッピーです。
時は流れるけれど
大学時代に受けた講義の中で「『時』には、文化によって2つのイメージの捉え方がある」という話を聞いた事がある。
- 時が流れていくイメージ
- 時の中を自分が進んでいくイメージ
その時の講義では『日本は上の「1」のイメージを持つ文化を持つ国である』と言われていたと思う。
確かに日本語には「時は流れる」とか「月日が流れた」みたいな表現がある。逆に「時を進む」などの表現はない。(と思う)
やはり日本においては「時」は流れていくモノなのだろう。
ただ、これが「人生」になると話は突然、変わってくる。
人生は「道」にたとえられる事が多く、人は、それを自発的に歩いていくイメージとなる。
上に貼り付けた動画のタイトルにもあるように『時の流れに身をまかせ』れば人生は進むのだから、別にワザワザ道を進まなくても良い気もするのだが。
「ワインしている道」ではない
とはいえ、もちろん人生を「道」にたとえたくなる理由もわかる。
上に貼り付けた『WINDING ROAD』の中に、繰り返し登場する一節がある。
曲がりくねった道の先に 待っている幾つもの小さな光
歌詞の解釈は人それぞれだが、おそらくここで表されている『小さな光』は「人生の目標」の暗喩なのではないだろうか。
そして、この歌は以下の歌詞で終わる。
曲がりくねった道の先に 夢見てたあの日の僕が 待っているから
ここから考えるに、この歌の主題は「小さな目標をひとつずつ叶えながら、最終的に目指す自分になれるように頑張っていこう!」というようなモノなのだと思う。
この「頑張らなければいけない」という部分を強調するためにタイトルも「WINDING ROAD=曲がりくねった道」となっているのだろう。
つまり、人生を道にたとえる理由は『「頑張って目標を達成するイメージ」を端的に表せるから』だ。
「時は流れる」をベースに「時は流れるから、特に自ら歩まなくても人生は過ぎるし、自分が求めるモノもどこからか流れてくるかもしれない」などと訴えたところで人は感動しない。それが真実であるか否かには関係なく。
泉の女神ではあるまいし
僕も人生を道にたとえる事に反対しているわけではない。
「時は流れるから~」という主張よりも「曲がりくねった道の先に掴むべき夢が待っている」という主張の方が、人に努力をさせる気になるだろうし、その結果、何かを達成できる可能性も上がるだろう。
ただ、ここから派生した「分かれ道」的なイメージに関してはあんまり賛成していない。
分かれ道とは…?
いわゆる次の画像の様なモノだ。
これをベースに選択肢を提示し、人生の岐路を表現するイメージ。
たとえば
とか
とか
みたいなイメージ。
これが僕はあまり好きではない。好きではないと言うか、人生の選択肢を「分かれ道」というイメージでとらえる事にはデメリットが多いのではないかと思っている。
というのも、実際のところ人生の中で「本当に二者択一であるモノなんて、あまり無い」と思われるからだ。
強欲スタイル
たとえば上に例として出した以下の3つのモノ。
- 安定 or 挑戦
- 家庭 or キャリア
- 就職 or 独立
これらは全て、両方を同時に実現する事も可能なハズだ。
もちろん実現可能性は片方だけを選んだ方が高いのかもしれない。だが、だからと言って、それは「両方を同時に実現は出来ない証拠」にはならない。
「これもやりたいけど、あれもやりたい」という欲望が出てきたときには、まずは「それを両方叶える方法は無いか?」と考えてみるべきだと思う。
もちろん、その結果「二兎追う者は一兎も得ず」ということわざの正しさを身をもって証明する事になる場合もあるかもしれない。
だが、そもそも「二兎を得られる者」は「二兎を得ようとした者」だけなのだ。
人生をどのように捉えるのも個人の自由だ。「分かれ道」と捉えても「曲がりくねった道」と捉えてもいいだろう。
後者のように捉えた人の中には、もしかすると『幾つもの小さな光』が待っている人もいるのかもしれない。
本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。
もちろん僕もどんな場合でも常に「二兎を追うべき」だと思っているわけではありません。その証拠に『Daily Choppy !』第803回では「ひとつの事に集中した方が良い場合もある」と書いていますので…。