こんにちは。勢い好き、チョッピーです。
残り火
本記事掲載日は4月6日。
4月と言えば、新生活の季節だ。
学生の多くは入学・進級を経て、新たな生活を始められたのではないかと思う。
社会人にとっても4月は入社・異動・昇格など、色々な変化が起こりやすい時期だ。
ただ、社会人は年度が替わっても「働く場所も待遇も、何も変わらない」という場合もある。
人事考課の結果、「待遇が悪くなった」という場合すらあるかもしれませんね。
かく言う僕も過去には、当時所属していた会社から「うーん、君は炎上プロジェクトに参加していたから、評価は据え置き!」という扱いを受けた事がある。
これは僕にとっては、今でも思い出すだけで怒りが沸いてくる出来事であり、当時も
「人手が必要」という理由で突然、炎上プロジェクトの助っ人として横浜から大阪に転勤させられ、月残業100時間超 × 18ヶ月の労働をさせられた挙句、そのプロジェクトが終わった途端に横浜に戻され、その結果の人事考課が「炎上プロジェクトに参加していたから評価は据え置き」だと…? く…くそったれどもめ~~~~!!!
と思わずベジータと化してしまっていた。
まぁ、人事なんてよく言われる通り所詮は「ひとごと」である。
評価をする者にとって、それをされる者がどの様な理由で炎上プロジェクトに参加し、どの様な労務状況を経験し、どの様な気持ちで働いていたかなんて、全く関係のない話だ。
大事なのは、その基準に照らし合わせて、その人物がどの様に数値化されるか。それだけだ。
その数値が基準を超えていれば昇格。基準を超えていなければ据え置き。場合によっては降格。
会社員とは、かくも不条理なモノなのである。
ノウハウ
僕の経験上、「正当な評価がされていない」という気持ち、もう少しわかりやすく表現すると「努力が報われていない」という気持ちは、メンタルに多大な悪影響を及ぼす。
だから、出来ればそんな気持ちにはならない方がいい。
そう言われてもねぇ…。完全に自分の気持ちをコントロール出来れば良いんだろうけど、そんなの、難しいでしょう。
それはそうだ。
だが、実は今の僕は「努力が報われなくてツラい」という気持ちには、ほとんど囚われなくなっている。
だからこそ経済的な観点や、他者からの評価的な観点からは全く成果の出ていない本連載『Daily Choppy !』を997日も連続で執筆し続けられているのではないかと思う。
せっかくなので、今から僕がどの様に「努力が報われなくてツラい」という気持ちを克服したのかを書いてみようと思う。
世界には、それに応える義務はない
そもそも「努力が報われていない」と感じた時に、同時に「ツラさ」を感じてしまうのは何故なのだろうか。
それはおそらく前提として「善行を積んでいるのだから、見返りが貰えて当然だ」という思い込みがあるからではないだろうか。
この思い込み、心理学の用語では「公正世界仮説」や「公正世界誤謬」と呼ばれているらしい。
なお、これを読んで「いや、思い込みじゃないでしょ。世界は公正なハズだし、そうあるべきだよ」と感じられた方もいらっしゃるかもしれません。その考え方は「公正世界信念」と呼ばれているらしいです。
「努力が報われなくてツラい」と感じている方は、この思い込みを捨て去るように意識すると良いのではないかと思う。
世界は公正には出来ていない。
どんな善人であろうと自然災害や犯罪に巻き込まれてしまう可能性はある。また、逆に「憎まれっ子世に憚る」なんてパターンもある。
そもそも「努力しているのだから報われなければおかしい」という考え方自体が、思い込みに囚われた不自然なモノなのである。
世界は、そんなに僕やあなたに都合良く作られてはいないのだ。
頑張ろうぜ
僕は「公平世界信念」の持ち主ではない。
世界に対して、もっとドライで斜に構えた見方をしている。
そのため「努力が報われなくてツラい」という気持ちに苛まれる事もない。
かと言って僕は努力をしていないわけではない。少なくとも自分では、それなりに頑張っているつもりだ。
はぁん? チョッピーは「世界は公正には出来ていない」って考えているのに、どうして努力なんかしているわけ? どうせ、何をしたって全部、ムダなのさ。だったら、何もせずに享楽的に人生を消費するのが賢い態度ってもんだぜ。
そう、「公平世界仮説の否定」だけだと、そのような考え方になってしまうかもしれない。
だが、僕はそうは考えていない。
それは「努力をしたからと言って必ずしも報われるわけではない」と考えているのと同時に「とはいえ、努力をしなければ報われる可能性は下がる」とも考えているからだ。
このふたつの考え方は論理的に矛盾しない。
ちなみに、後者の考え方はいわゆる「計画的偶発性理論」と呼ばれるモノに則っている。
僕は「公正世界仮説の否定」と「計画的偶発性理論の肯定」というふたつの考え方の組み合わせにより「努力が報われなくてツラい」という気持ちの克服と、「とはいえ努力すべき」という姿勢のふたつを両立させている。
うーん、そうは言っても、やっぱり腑に落ちないわ。
そう思われる方もいると思う。
その場合はなにかしらの神仏に祈りを捧げてみると良いのではないかと思う。
いや、冗談抜きに。
世界は公正ではない。いわんや人の手で行われる人事をや。
しかし、神仏は公正かもしれない。
それに対し祈りを捧げてみたり、あるいは南無阿弥陀仏などと唱えてみれば、彼らはその善き行いに対し救いの手を差し伸べてくれるかもしれない。公正に。
それが現世利益という形で与えられるのか、もしくは死後の世界の待遇として与えられるのかは、神仏によって異なるのだろうけれど。
本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。
世の中、不条理ばかりですね。負けずに生き抜いていきましょう。