こんにちは。チョッピーです。
ライターの鞠 ようこさん(@mar_cat14)の以下のツイートがバズっています。
長女が「買ったのじゃなくてお母さんが揚げた唐揚げをお弁当に入れて!その方が心がこもってるから」と言いました。その考えは将来、長女自身を苦しめることになる可能性があると思います。その呪縛から長女を解放すべく、決死の覚悟で冷凍の唐揚げを買って参りました。
鞠 ようこ(ライター)|Twitter
「お母さんが揚げた唐揚げ」の方が「買ったの」よりも「心がこもってる」のかどうかは僕にはわかりません。その後の鞠 ようこさんの行動に対しても何かしらの価値判断をする事はしません。ただ、このツイートを読んで、ビジネスの観点から少し引っかかった事があります。この記事ではその点について考えてみたいと思います。
鞠 ようこさんのTwitterのプロフィールページによれば鞠 ようこさんの長女は「7歳」との事なのですが、その年齢の子供も「心がこもっている唐揚げ」を欲しがるんですね。僕はこの点に少し引っかかりを感じました。「欲しがる人がいる」という事はビジネスにおいては「ニーズがある」という事です。しかも7歳という年齢でそのニーズを感じているという事は、もしかしたらそれは普遍的なニーズであるのかもしれない。(もちろん子供に特有のニーズである可能性もありますが)これをふらとぴのビジネスに活用する事は出来ないでしょうか? ちょっと考えてみました。
ちなみに鞠 ようこさんの長女は「唐揚げの味や量」には(少なくとも鞠 ようこさんの該当ツイート上では)全く言及していないため、少なくともニーズの段階では彼女は唐揚げに対して「美味しさ」や「満腹感」などは求めていないという事になります。もしかすると「美味しさ」や「満腹感」は彼女にとって「お弁当のおかずの唐揚げ」における「当たり前品質」でありワザワザ言及する価値のあるモノではなかったのかもしれませんが。そうなると「心がこもっていること」は彼女にとって「魅力品質」であり「お弁当の唐揚げが備えているべき品質」に対する+αの要素の要求であったのかもしれません。
個人的には彼女が「美味しいしお腹もいっぱいになるけれど心がこもっていない唐揚げ」と「美味しくないしお腹も膨れないけど心はこもっている唐揚げ」のどちらをより強く求めるのかは若干、気になるところです。ただ、この疑問は実際に試す事が出来ない以上、いくら考えても解けませんので、この記事においては考えない事にします。
なお、上述した「当たり前品質」や「魅力品質」という概念は品質に関する分類のひとつであり、その考え方は「狩野モデル」として知られています。興味のある方は以下のサイトなどを参照ください。
話を元に戻します。
鞠 ようこさんの長女が欲しがっている「心がこもっている唐揚げ」とは具体的にはどの様な唐揚げの事を指すのでしょうか。該当ツイートによれば彼女自身は「買ったのじゃなくてお母さんが揚げた唐揚げ」と言ったとされています。つまり彼女にとって「心」は「買ったの」には存在しておらず「お母さんが揚げた唐揚げ」には存在する事になる。
また、前述した通り彼女は「味」や「満腹感」に関しては言及していないため「心」はそれらの要素とは異なる何かによって「込められる」と考えられます。「買ったの」と「お母さんが揚げた唐揚げ」における「味」や「満足感」以外の差異とは、一体、なんでしょうか?
情報源が該当ツイートしかないので完全に推測になりますが、おそらく「お母さんの手間」でしょう。「色」や「香り」なども異なるのでしょうけど、あまり、それらの差異によって「心の込められ具合」が変わるとは思えません。(根拠はありませんが)
ここで重要なポイントになるのは「お母さんの」という点だと思います。実際には「買ったの」にも生産業者・物流業者・販売業者などの複数の人間の手間がかけられています。しかしながら、それらの「手間」は鞠 ようこさんの長女にとっては「心」の源泉にはならないのでしょう。要は該当ツイート上では言及されていませんが、鞠 ようこさんの長女は「(お母さんの)心」を求めているのでしょうね。そして、それは「手間をかけた食品」という形で具現化されると考えている。
この推測が正しいとすると、その是非はともかくとして鞠 ようこさんの長女はおそらく「何かを満たすために”母親の手間”を費やした食品を求めている」という事になります。逆に考えると、実際は「買ったの」であったとしても、それを「母親の手間を費やしたもの」であると鞠 ようこさんの長女に認識させる事が出来れば、その「何か」は満たされると言えるハズです。
という事は何かしらの商品の生産者が、その商品の生産に費やす手間を「鞠 ようこさんの長女にとっての母親の手間」と同質のモノである様にプロモーションする事が出来れば、鞠 ようこさんの長女が抱えていた「何か」と同じモノを解消したいと考えている消費者にとって、その商品を他の商品が備えていない価値を備えたモノとして販売する事が可能になると言えるのではないでしょうか。
まぁ、最大の問題は「消費者にとって赤の他人である生産者の手間を、どうやって、その消費者にとって”母親の手間”と同質のモノにするか」であるのでしょうけれど…。この戦略を実現するためには「消費者にとっての生産者の位置づけ」を「母親」と同じところまで変化させないといけないんですよね。難しそうですねぇ…。
本日もふらとぴに訪問頂きありがとうございます。
少しでもお楽しみ頂ければ幸いです。
少し前の記事で【このところ「Daily Choppy !」を内容・分量共にライトにする事を心掛けて執筆しています。】とか言った舌の根も乾かぬうちに、この様な長めの記事を書いてしまいました。こういうブレも「Daily Choppy !」の醍醐味として楽しんで頂けると幸いです。