こんにちは。ダイヤ大好き、チョッピーです。
スゴクハヤイエイガ
少し前に「映画を倍速で視聴する人々」の存在が話題になっていた。
どうやら『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ―コンテンツ消費の現在形』という書籍も出版されているようだ。
紹介しておきながらなんだが、僕はこの書籍を買っていない。読んでもいない。
だが、たまたま書籍の紹介記事を見付けたので、そちらは読んでみた。
この記事によれば倍速視聴の広がりの原因は次の通り。
倍速視聴の広がりは、映像作品が「鑑賞するもの」から「消費するもの」へシフトしていることの表れだと稲田氏は指摘する。
「鑑賞とは作品に没頭し、ただ味わうことだと思います。作品の長さには作り手の意図があるはずで、その時間を費やさなければ得られない滋味や浸れない感情もある。一方、『話題についていきたい』『会話のネタにしたい』など実利的な目的の人たちは、『情報を2倍の速さで処理できれば、倍速でも同じように味わえるはずだ』と信じている。速読と同じような感覚なのです」
映画を「倍速視聴」する人なぜ増加?現代人の切実な理由と作り手の苦悩 | ニュース3面鏡 | ダイヤモンド・オンライン
なるほど。
コンテンツ制作者としての側面も持っているチョッピーとしては、この傾向はどうなの? やっぱり「倍速視聴などせずにキチンと鑑賞しろ!」って思うタイプ?
いや、別に…。
倍速視聴が話題になる前から「あらすじで読む○○の名作」的な書籍はたくさん発行されていたし、映像作品を「目的」ではなく「手段」として活用するニーズも理解できる。
だから、倍速視聴に対して悪いイメージは僕には無い。
そもそも僕自身、映像作品を倍速視聴だったりスキップして観る場合もある。
個人的に「映像作品の倍速視聴が流行っている」という事象において注目すべきと考える点は、上の記事で紹介されている3つの「背景」だけだ。
倍速視聴が広がったのは大きく3つの背景があります。作品数が多すぎてチェックする時間に追われていること、かけた時間に対する満足度を意味するタイパ(タイムパフォーマンス)を求める人が増えたこと、セリフですべて説明する作品が増えたこと。
映画を「倍速視聴」する人なぜ増加?現代人の切実な理由と作り手の苦悩 | ニュース3面鏡 | ダイヤモンド・オンライン
つまり昨今のコンテンツ消費者には「忙しいので、わかりやすくて満足度が高いコンテンツを求めている人」が多いのだろう。
個人的には大歓迎
上で紹介した書籍や記事では映像作品を対象にユーザの行動分析をしている。似たような話は音楽の世界にもあるのではないかな…と個人的には思っている。
とにかく昨今のヒットソングには
- 頭サビ
- 複雑な構成
- ハイレベルな歌唱テクニック
を活用した曲が多いように思えるのだ。
たとえば King Gnu の『逆夢』とか
米津玄師の『Pale Blue』とか
Mrs.GREEN APPLE の『ダンスホール』とか
数え上げれば枚挙に暇がない。
これも「忙しいので、わかりやすくて満足度が高いコンテンツを求めている人」に応えるためのアーティストの工夫なのではないだろうか。
つまり、「頭サビ」により冒頭にキャッチーなパートをもってきて「わかりやすさ」を伝え、「複雑な構成」や「ハイレベルな歌唱テクニック」で「満足度」を高めている。
そうしなければ、あっという間に飽きられてしまい、すぐに次の曲へとスワイプされてしまうのだろう。
今の時代、音楽作品だって、映像作品と同じくサブスクで無数に楽しめるのだから。
大河の一滴、あるいは
さて、今まで映像作品と音楽作品を題材に「ユーザ特性とコンテンツのタイプ」について若干の他人事感を漂わせながら語ってみた。
というのも、僕は主にテキスト系コンテンツを作っている身。
チョッピーはふらとぴクリエイターとして本連載『Daily Choppy !』と、その他にもいくつかのコンテンツを制作者として担当しています。しかしながら、『ふらとぴラジオ(仮)』以外の担当コンテンツは全てテキスト系です。
だから、映像作品・音楽作品に関しては「消費者」の立場に甘んじているケースが圧倒的に多い。よって、それらのコンテンツ制作の変遷は他人事なのだ。
ただ、上に書いたような現在の消費者の事情はテキスト系コンテンツにも同様に存在すると考えるべきだろう。
なんと言っても現在はテキスト系コンテンツにおいても膨大な数の作品が日々、作りだされている。
書籍だけでも令和2年には68,608冊(!)が発行されているらしい。(「第七十一回日本統計年鑑 令和4年」648ページより)
1日に約187冊が発行されている計算になりますね。不眠不休で約19分で1冊読めば、全ての書籍を読破できます。
テキスト系コンテンツというカテゴリだと、これにブログ・SNSや、本サイト『ふらとぴ』のようなコンテンツ提供サイトのモノも加わってくる。
まさに天文学的なデータ量となりそうだ。
そんな状況下で、自分の作ったモノをユーザに消費して頂かなければならない。
これはユーザからしてみれば、砂漠の中で一粒の砂を探すような作業に違いあるまい。
しかも、その砂漠には日々、砂が増えていくのだ。
立派な砂に限っても1年で68,608粒くらい。
だから…砂漠と言うよりも、むしろ流砂と言った方が適切かもしれませんね。その中から拾い上げられなければ、多くの砂と同じく一顧だにされずに流れ去っていくだけです。
反語
そんな流れの激しい流砂の中で、一粒の砂を見付けてもらうためにはどうするべきだろうか。
比喩のまま語るとすれば
- 出来るだけ大きな砂になる
- 出来るだけキレイな砂になる
- 出来るだけ良い香りの砂になる
みたいな工夫が必要なのだろう。
そうして、他の砂よりも目立ち、実際に手にした時の喜びを出来るだけ増やす。
そうしなければ、そもそも見付けられないし、見付けられたとしても手に取られないし、手に取られたとしても捨てられてしまうだろう。
比喩を外して具体的に表現すると、最低限、
- 興味深いテーマ
- 飽きさせない構成
- 読み進めるだけで楽しさを感じられるテクニック
などの工夫は必要なのだろう。
さらに言うと、そんな工夫をしたところで最終的に「これは良い砂だ!」と思ってもらえるかどうかは結局のところ運だ。
どんなに製作者が工夫を凝らしたところで、最終的にユーザがそれを気に入るかどうかはユーザ次第ですので。
でも、映像作品の製作者や音楽作品の製作者は、そんな現実に腐らずに当たり前のように様々な工夫を施している。
他のジャンルの製作者はそれをしなくてもいいなんて、そんな道理があるだろうか。
本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。
今回のお話、おそらく「競争」が存在する全ての世界に共通しているモノなんでしょうね。今の時代、プレイヤーが少ないフィールドなんて、そんなに無いでしょうから。