こんにちは。美味しいところ大好き、チョッピーです。
エッセンシャルワーカーの憂鬱
自衛隊にやたらと感謝の念が集まっているのを、常々、不思議に感じている。
自分自身が大きな災害に遭遇した事がなく、災害救助などで直接的に自衛隊に助けられたことが無いから、そう感じるのかもしれない。
いや、もちろん
自衛隊に感謝するなどけしからん!
などと言いたいわけではない。
自衛隊の方に感謝するのは大変、結構な事だ。特に、災害救助などで直接的に助けられた経験を持つ方においては、そのような念を抱くのはむしろ当然だと言えるだろう。
ただ…そうであるならば、同様の理由で他の職業の方に対しても感謝の意を示すべきだよな…とは思う。
たとえばスーパーやコンビニなどの小売業で働く方々。
たとえば医者や看護婦や医療事務などの医療従業者。
たとえば金融業者。たとえばインフラ事業者。たとえば建設業。農業。飲食業。製造業、情報処理、物流、福祉職、公務員…。
社会の維持、発展に寄与するお仕事は無数にある。
だが、それらのお仕事に就いている方に感謝の念や敬意が払われる事は基本的には、無い。
不思議だ。
繰り返しになるが、べき論で言えば、自衛隊に感謝するのであれば、その他のお仕事に従事する人々にも同じ気持ちを抱かなければいけないハズなのだが…。
だからコロナ禍においては、それらのお仕事の重要性が「エッセンシャルワーク」と新たな言葉を作ってまで強調されたのでしょうね。
構造的問題
去る11月27日(日)、『全部を賭けない恋がはじまれば』という書籍の出版記念イベントが梅田 蔦屋書店にて開催された。
僕は普段はあまりこの手のイベントには参加しない。
しかしながら、今回は題材の書籍を読んでいるし、著者が個人的に好きだし、なにより、僕自身がこの本の版元の株主でもある。
というわけで別府から大阪に戻ってきた当日ではあったが、参加した。
というか、このイベントに参加するためにこの日に戻るスケジュールにしていました。
イベント内で、以下のような発言があった。
「物書きにはビジネスライターやエッセイストなど色々あるが、その中では小説家が一番ヒエラルキーが高い。小説が一番ウソしか書いてなくて実利はないにも関わらず。つまり、役に立たないモノにこそ価値が認められるという事なのだろう」
上記、発言の正確な記録ではありません。僕の記憶に基づく意訳です。ご了承ください。
なるほどなぁ。
確かに小説家に限らず、ゲームクリエイターとか…映画監督とか…あるいは役者・アイドル・ミュージシャン・スポーツ選手…昨今だったら YouTuber とかプロゲーマーとか…とにかくエンタメなどの「人間が生きていくために必須ではない職業」に就いて成功している人ほど、憧れや賞賛を集めやすい構造がある気がする。
役得
上にチラッと書いたが、僕は27日(日)に大阪に戻った。
それまでの数日間は地元の大分県の別府に帰郷していた。
帰郷中は祖母の一回忌に参加したり、温泉に行ったりと、それなりに色々なタスクやアクティビティをこなした。その中には妹の子供の男の子…つまり「僕にとっての甥の相手をする」というモノもあった。
甥は6歳と7歳の2人です。幼稚園生と小学2年生。
そんなわけで別府滞在中に彼らのお気に入りのゲームセンターで遊んだり
夕飯を食べに行ったり、公園で鬼ごっこをしたり、カラオケに行ったりと、なんやかんや色々と彼らと一緒に遊ばせて頂いた。
で、まぁ、自慢ではないのだが、一応、僕は彼らから気に入られているらしい。
ただ単に一緒に遊んでいるだけで好かれるなんて、我ながら良いご身分だと思う。僕は彼らが生きていくために必要なお金も食べ物も住居も、何一つとして提供していないのに…。
べき論で言うなら僕なんかよりも、普段、彼らをお世話している方々がもっと好かれるべきだと思うんですけどね。
非教育的な現実
自衛隊は平時には何の役にも立たない。その代わり、有事には役に立つ。だから、自衛隊は人々から多くの感謝を集められる。
小説家は生きていくために必要なモノを作りださない。だが、物語のある人生は豊かだ。だから、小説家は人々から多くの賞賛を集められる。
親戚のおじさんはいなくても子供は育つ。ただし、そのおじさんはヒマに任せて子供たちの相手をしてくれる。だから、そのおじさんは子供達から好意を集められる。
今の時代、何事かを成すために「人気」はとても大切だ。
他人から感謝され、賞賛され、好かれる存在こそが何事かを成すことが出来る。
何事かを成したから人気が出るのではない。
人気が出る振る舞いをしているからこそ、その人気を活用して、何事かを成せるのだ。
本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。
「縁の下の力持ち」は社会の維持のために必要な存在ですが、もしもあなたが社会的に躍進したいと考えるのであれば、その立場に甘んじていてはいけません。