こんにちは。タイプミス多いマン、チョッピーです。
今回の記事について
今回はチョッピーが自分の記事を読み直していて感じた「見た目の大事さ」についてのお話です。
『Daily Choppy !』はこうして作られています
本連載『Daily Choppy !』は原則、以下の流れで制作・公開されています。
- 執筆
- チョッピー自身によるセルフチェック
- 編集部内でのレビュー
- 公開
「2」のセルフチェックでは「1」で書き殴った文章の言い回しや誤字などを修正しています。「2」の編集部内のレビューでは規定された掲載基準と照らし合わせて問題がないか、また、誤字がないかを確認しています。
「規定された掲載基準」は以下の通りです。『Daily Choppy !』では何回か紹介していますが気にせず再掲。
ふらとぴ編集部内での掲載基準
- 特定宗教・政党に関する応援・批判記事の掲載は禁止とする
- 差別的な内容の記事は掲載禁止とする
- 他者の著作権を侵害する記事は掲載禁止とする
- その他、法に触れる記事や内容面で不備がある記事の掲載は禁止とする
- 歴史や科学的事実を基に作成した記事は、引用文献や参考文献等を必ず記載すること
ちなみに「4」の公開の後にも僕は自分の記事を読み直して、言い回しに不自然さを感じたり誤字を見付けた場合はコッソリ修正したりしています。
公開後でも修正が容易というのはウェブ媒体の利点だね。でも、公開後の修正って実際することあるの? すでにセルフチェック・編集部内レビューと2度もチェックされてるんでしょ? さすがに問題点はかなり潰されているのでは…?
いや、それがねぇ…あるんですよ。
5時が大杉る
特に目につくのは誤字。誤字が多い。2度のチェックすらすり抜ける程に誤字が多い。言い回しの不自然さが目に付く事も多いけど、それ以上に誤字が多い。
ただでさえ編集部内のレビューで誤字を指摘されがちなのにね。それを潰した上でも残ってるという事は原文はどれだけヒドいんだ。
いや、ホント。そもそも誤字なんてセルフチェック段階で潰しておくべきモノなんですけどね。編集部内のレビューでは掲載基準と照らし合わせて問題ないかどうかだけをチェックして頂くべき…。
と、まぁ、そういうわけで僕の記事は誤字が残っている状態で公開されてしまう事が多いです。これは本当に反省すべき点。
でもまぁ…そんなに落ち込まなくてもいいんじゃない? 誤字くらいねぇ…誰しもしてしまうモノだし、なんなら最近はネットに掲載されている有名雑誌社や新聞社の記事でも見かける事が多いよ。中身が伝わればいいんじゃないの?
いやいや、ダメです。他の記事を書いている人がどう考えているかは僕にはわかりませんが、僕個人の考えとしては誤字は大罪です。本来はひとつとして残っていてはいけないモノです。
じゃあ、チョッピーは大罪人だね
ぐ…確かにそうなってしまう…。自らを貶めていくスタイル…。
誤字は必ず潰せ!
なぜ僕は誤字をここまで憎んでいるのか。
チョッピーは面食いで有名だからね。常日頃から「美男美女以外に用はない。人格は問わない。中身よりも外見! 外見さえ良ければ良い!」って豪語してるもんね。
そんな事、一回も言ったことない。このネット時代に容易に切り抜いて拡散できるギャグは危険だからやめてくれ。もちろん中身が大事ですよ。文章で言えば「何を言わんとしているのか」が大事だとおもっていますよ。
じゃあ文意が伝わればいいじゃん。そんなに誤字に目くじら立てなくても…。
いやいや、中身が大事だと思うからこそ誤字には気を付けなければいけないんですよ!
禅問答ですか?
いや、そんなに難しい話ではなくて…。文章を読んでる時に誤字があると、それに気を取られるじゃないですか。「ん? この文章の漢字ってこれで合ってる?」とか「ん? 脱字があるな…」とか「ん? なんだこの文章? どうやって読むんだ?」ってなるじゃないですか。
この文章を読んだ人は「ん?」が多いな…となった事でしょう
ん? それは今はいいんですよ。今は誤字の話。とにかく誤字があると、それに気付いた読者はそこに意識が向いてしまうんですよ。僕が読者の場合はそうなんですよ。そうなると文章自体に何が書かれていようと、その文章の説得力が落ちるんですよ。僕が読者の場合はそう感じるんですよ。
文章の中身が大事だと思うのであれば、誤字は絶対に潰すべき! 何故ならば誤字があると中身が伝わらなくなるから! 僕はそう考えるのです。
一般化の時間
さて、「中身が大事だと思うのであれば、誤字は絶対に潰すべき!」という点は容易に一般化が可能です。
つまり…?
外面を気にしろ…という事です。
たとえば初対面の相手とのコミュニケーションの場で人格で勝負したかったり、お仕事の場で作った資料の中身で勝負したかったりという場合には「奇抜なファッション」や「独自性に満ちたレイアウト」などを用いるのは止めた方がいいと考えます。
えぇー、なんで? それも個性でしょ。
確かにそれも個性。そこは全く否定しません。でも、「奇抜なファッション」や「独自性に満ちたレイアウト」を用いると、まず最初に相手に伝わるのはそれらの情報です。「奇抜なファッションの人だな…」とか「なぜ基本フォーマットを使っていないんだ…」となります。
「自分が奇抜なファッションを好む人物である」とか「独自のレイアウトの良さ」とかを伝えたいのであれば、それでいいです。でも大抵の場合、そうではないと思うんですよね。
「奇抜なファッションを好む」は人格のうちのごく一部に過ぎません。多くのケースにおいては、その他の部分でも勝負したいと思っている事が多いハズ。「独自のレイアウトの良さ」も「レイアウトを再考する場」以外でそれを訴えるのは不適切です。
ファッション・レイアウトにおいても文章の誤字と同じく「伝えたいモノを阻害する要因」は出来るだけ削っていくべきです。どうしても削れないものは仕方がない。でも「削ろうと思えば削れるもの」は可能な限り削った方がよい。僕はそう考えています。
やっぱりチョッピーは面食いなんだね
違うってば。
本日の締め
今回は僕が自分の記事を読み直していて感じた「見た目の大事さ」についてのお話を書いてみました。
文章でも外見でも中身を伝えたいだけであれば「カッコいい」とか「キレイ」とか「美しい」とかのレベルにまでいかなくても良いと思うんですよね。最低限「潰せるミスを潰している状態」にまで持っていければ中身で勝負する事も出来ると思います。
とはいえ、その最低限のレベルに到達するまでもなかなか大変ですよね。文章も外見も。頑張りたいと思います。でも、これがいきすぎると「ルッキズム」になるので、それも注意が必要なんですよねぇ。
本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。
発信者としては見た目にこだわり、受信者としては見た目にこだわらない姿勢が大事なのかも。