蛇足
なぜ陽菜が「天気の巫女」に選ばれたのか?
ここから先は蛇足として「陽菜が天気の巫女に選ばれた理由」を語っていきたい。
新海誠監督の前作「君の名は。」に対して、個人的にはいくつかの不満点があった。
その中でも最大のモノは「なぜ瀧君が入れ替わりの対象に選ばれたのか?」がよくわからないという点だった。いや、モチロン、作品を細かく観て、深く考察を行えば、その理由もハッキリするのかもしれない。ただ、僕には映画を観ただけでは、その理由がわからなかったのだ。
対して「天気の子」では「陽菜が天気の巫女に選ばれた理由」が明確である。
それは陽菜の行動原理が「人のために動く」というモノであるからだ。
陽菜は映画前編を通じて、徹底的に人のために動くキャラクターであると描写されている。
僕が気付いた点を羅列するだけで以下の通り。
- 母親のためにいつ崩壊してもおかしくないビルの屋上の神社にお参りに行く
- バイト先で3日連続で夜を明かしている家出少年(穂高)にハンバーガーをおごる
- 弟の生活費のために年齢を偽ってバイトを行う
- 年齢を偽って働いていたバイトを解雇された後は風俗店で働く事も厭わない
- 自分の体が消えていく犠牲を払ってでも「みんなが喜ぶ晴れ女業」を続ける
- 弟と一緒に暮らせないのであれば家を捨てて逃げる事も厭わない
- 「雨を止めてほしいか」という質問に「うん」と答えた穂高のために人柱になる
- 自分に合いに来た穂高のために人柱である事を辞める
この様に穂高はかなりエクストリームなレベルで「人のために動く」キャラクターなのである。
「雲の上にいる何者か」は「人柱」という究極の自己犠牲を求めているわけで、その役割に「穂高」はピッタリのパーソナリティーを持っていたのであろう。この様に彼女が「天気の巫女」として選ばれた理由には非常に深い納得感がある。
ちなみに「雲の上にいる何者か」にとって最大の誤算は「天気の巫女が、社会のためではなく、社会の反逆者のために動いてしまった」ことであろう。まさか天気の巫女が社会のためではなく、社会の反逆者のために雨を止めてしまうとは思っていなかったに違いない。天気の巫女は社会の反逆者のために動いているのだから、その彼が「社会なんてどうでもいい。それよりお前と一緒にいたい」と言えば、そりゃ、彼女は容易に前言撤回して人柱なんて辞めちゃうのである。その結果、社会がどうなろうと彼女らは知ったこっちゃないのである。何故ならば陽菜はエクストリームなレベルで穂高のために動く人物であり、穂高は徹頭徹尾、社会の反逆者であるからだ。
映画館から帰宅してる時に大雨に降られた(超蛇足)
最後に蛇足の蛇足として、僕の話を。
まぁ、章題に書いてる通りなのですが「天気の子」の鑑賞後に、それに相応しい夕立に遭遇し、びしょ濡れになりました。どのくらい濡れたかって言うと↓くらい。
どうやら、陽菜は現実世界でも人柱にならない道を選べたようだ。
いやぁ、本当に良かった。
以上です。