こんにちは。チョッピーです。
2日連続で無為な話で申し訳ない気がするのですが、昨日の「Daily Choppy !」の原稿を書いている途中から「むしろ今の時代は【客観的とはどういう事か?】を問うよりも【主観的とはどういう事か?】を問う方が大事な気がする…」という気がしていまして…。ちょっとそれについても考えたいなぁ…と思っている次第です。
「主観的に考える」という場合の「主観的」とは誰の視点の事を指すのでしょうか?
当然「自分の視点」が回答だと思います。しかしながら「自分の視点」とは何でしょうか?
この世に生きる全ての人に言える事だと思うのですが「100%オリジナルな自分自身の視点」など存在するのでしょうか? 誰しもが誰かの意見・思想に影響されて、今の視点に辿り着いているのではないでしょうか。もしそうであるならば「主観的な視点」には「(過去、その人自身が身に着けた)客観的な視点」が含まれており、原則的な意味で「主観的」である事は不可能なのではないでしょうか。
そもそも、僕達は何かを表現する時には基本的に「言語」を使うと思うのですが、そのツール自体が自分自身のオリジナルなモノではなく、過去から蓄積された文化を内包したものである以上、その時点ですでに自分自身のオリジナリティは棄損されているのではないか?という疑いもあると思います。
仮にアウトプットを言語ではなく絵画や音楽と言った別の表現方法に頼った場合も、同じ問題は付きまとうと思います。およそ「他人に伝わるモノ」には他者と共有された「意味を表現する約束」が存在するハズで、それを使っている以上は客観性は排除できていないのではないかと考えます。
もし、本当に「100%オリジナルな表現」というモノが存在するのであれば、それはきっと、表現者以外には意味が伝わらない謎のアウトプットとなってしまうのではないでしょうか。
また、別の観点から考えた場合に「【僕】とは、そもそも何か?」という疑問もあります。
基本的には「僕の視点」は「僕の意志」によって生み出されているモノであり「主観的である」という事は即ち「僕の意志に忠実であること」という風に捉えられているのではないかと思うのですが、では「無意識のうちに行ったこと」は「主観的な判断では無い」のでしょうか? むしろ「無意識な判断こそ主観性の強い判断」である場合の方が多いのではないでしょうか。
「好き嫌い」なんて、まさにその好例だと思います。「意思に基づいて好き嫌いを判断する」なんて事は無いのではないでしょうか。まず「好き or 嫌い」に関して無意識の判断があり、その後に「○○だから好き or 嫌い」という理由を後付け的に捻りだしているのではないでしょうか。
この考えが正しいとすれば「僕が主観的であるという事は僕の無意識に忠実であること」となるのでしょうか? しかしながら「意識していないのに湧き上がってくる何か」が無意識だとすれば、それはかなり簡単に外部に影響されてしまうモノなのではないかとも思えます。「快適な環境」にいる場合と「不快な環境」にいる場合では「無意識な判断」はだいぶ、異なってくる様に思えます。
そうであるならば「無意識の判断」は「外部からの影響、すなわち客体の影響を受けているモノ」という事になり、やはり純粋に「主体的なモノ」ではなくなってしまいます。
だいぶ、何が言いたいのかがわからなくなってきました。
自分の考えられる範疇を超えているテーマを扱うのは危険ですね。しかも、こんなことは考えなくても毎日の生活には何の支障もありません。
しかしながら、なんだか、僕には「僕とはなにか」「あなたとはなにか」を考え続ける事は、人生にとって大事な事である様に思えてならないので、今後も、折に触れ、このテーマに関しては考えていきたいと思います。
うーん、2日連続で浮世離れした文章を書いてしまった気がします。
あんまりよくない傾向な気がしないでもありません。
本日もふらとぴにご訪問頂きありがとうございます。
少しでもお楽しみ頂ければ幸いです。