こんにちは。クリティカルシンキングという言葉の響きは好き。チョッピーです。
今回の記事について
今回はチョッピーがコンテンツを作る上で考えている内容についてのお話です。
心が動いたときに人は何かを伝えたくなる、たぶん
僕、ふらとぴで「僕の感想」というコンテンツも担当しています。
最近はめっきり更新されていません。今回の記事を書くために確認してみたら、今のところの最新記事である第19回↓が2019年11月22日に掲載されたきり更新が止まっていました。
1年近くの停滞。良くないですね。
「僕の感想」は「Daily Choppy !」と違って題材が検索ワードに引っ掛かりやすい。また、感想コンテンツはオピニオン系の記事よりも読まれやすい傾向にある。
これらの点から、ふらとぴ運営者たるチョッピーとしては「僕の感想」は適度に掲載していくべきコンテンツだと感じています。ただ、ふらとぴクリエイターたるチョッピーとしては「そうは言っても、このコンテンツを定期的に作るのはなかなか難しい」と考えています。
二重人格かな?
なんとなく定期的に掲載した方が良いんだろうな…とは感じている。でも、実際には出来ていない。何故か? 理由は単純。最近、あんまり感想を書きたくなる作品に出合っていないからです。
一応、2019年11月22日以降にも、いくつかの作品を観たり読んだりはしているので書こうと思えば書けます、たぶん。ただ、その結果、自分で読んで面白いと思える記事が書ける気がしない。
無理に書こうとすると「建物がいっぱい爆発して良かったと思う」とか「スッゲーつまらん」とか「超絶面白い!」みたいな一言感想になってしまう気がします。
おそらく僕は「それが何故そうなったのかを適度に説明できる程度に、自分の心が揺れ動かされた時に感想を書きたくなる人」なんですよね。心が微塵も動かなかったときや、逆に激しく揺さぶられたときには、感想が書けなくなってしまう。
心が微塵も動かなかった時に感想が書けない理由はわかりやすいと思います。単純に何もお伝えする事が無いからです。
逆に激しく心が揺さぶられたときに何も書けなくなってしまう理由はわかりにくいかもしれません。確かにその場合には「伝えたい何か」は出てきます。ただ、僕にはそれを上手に伝える技量がないんですよね。
ひとつ具体例を出しましょう。少し前に映画館で上映されていた「千と千尋の神隠し」を久しぶりに観て、僕はいたく感動しました。初上映当時に観た時と同じく、猛烈に面白かった。あの作品が与えてくれる満足感は全く色あせていない。
ただ、その理由がひとつもわからない。理由がわからないので文章化が出来ない。無理やり文章化しようとすると、印象的だったシーンをひとつひとつ挙げていって「ここが良かった!」と伝えるだけの文章になってしまう。
そんなわけで僕は「文章化できる程度に適度に心が動かされた作品」に対してしか今のところ「自分が読んで面白いと思えそうな記事」を書く事が出来ないのです。
でも、なんだか今回の記事を書いてて「ここが良かった!」と伝えるだけの文章でも別に良いような気もしてきました。いずれ「千と千尋の神隠し」を題材にした「僕の感想」にチャレンジしてみるかもしれません。チャレンジした結果、ボロ負けして掲載に至らない可能性も高いですが。あの映画、「強い」んだよな…。
心はプラスにもマイナスにも動く
さて、今まで長々と「僕は心が適度に動いたときに何かを伝えたくなる」という説明をしてきました。ここで問題となるのが「心がマイナス方面に動いた時に、それを伝えるべきか否か」です。
この点について考えるべきポイントは2つあるかな…と思います。
- マイナスをマイナスのまま伝えても面白い文章にはならない
- いくら面白く料理したところでマイナス評価を食らった人は不快に思う可能性が高い
それぞれ説明していきます。
マイナスをマイナスのまま伝えても面白い文章にはならない
これは心がプラスに動いた場合でも同じ話かもしれません。「つまらない」とか「ひどい」とかの感情をそのまま伝えられても何も面白くないんですよね。少なくとも僕は面白いと感じません。
これはクレーマーを想像して頂けると理解しやすいかと思います。一方的に相手の不快感・怒りを伝えられて喜ぶ人は、あまりいないのではないでしょうか。
マイナスの感情を伝えたい場合は、かなり工夫しないと面白いモノにはならないのではないかと感じています。
いくら面白く料理したところでマイナス評価を食らった人は不快に思う可能性が高い
こちらの方がより深く考えるべき観点かもしれません。
マイナスの感情を感じた時に、人がそれを伝えたくなる理由は、おそらく「マイナスの感情の原因となった点を是正してほしい」という願望が根底にあるからではないかと思います。
「これはおかしい」「これは美味しくない」「こうあるべきだ」などと言った言動には「だから、こうしてほしい」という言葉が隠されている可能性が高い。それを発信者自身が自覚できているかどうかは、ともかくとして。
これには複数の問題点があります。
- 自分が「正しい」と感じている事を相手も「正しい」と感じているかどうかはわからない
- 自分と相手が同じ「正しさ」を感じていても、相手がそれを受け入れるかどうかはわからない
何をもって「正しい」とするかは人それぞれです。ある人は「常に上を目指す態度が正しい」と考えているかもしれません。ある人は「適度な位置で留まるのが正しい」と考えているかもしれません。
この場合、お互いに「相手は間違っている」というマイナスの感情を抱く可能性があります。これを相手に伝えたところで、お互いの印象が悪くなるだけです。大前提となる「正しさ」が異なるためです。
仮に両者ともに「常に上を目指す態度が正しい」と考えていたとしても、相手が「この人の意見は聴くべき」と感じていないとしたら、誰かからのマイナスの意見は受け手にとってプラスにはなりません。
その場合、その意見はただの不快なノイズとなります。意見の内容は関係ありません。そもそも扉が閉じているのですから、部外者はそこに入る事は出来ないのです。後に残るのは「扉が傷ついて不快だった」という受け手の気持ちだけです。
マイナスの感情を原動力にしたコンテンツはどうなのか
こんなことを考えていると「マイナスの感情を原動力にしたコンテンツってどうなんだろうな」と思ってしまいます。僕は基本的にはふらとぴにおいてマイナスの感情を原動力にしたコンテンツは作らないように心がけています。
とは言え、無自覚のうちにそれを作っている可能性はあります。また「Daily Choppy !」でも一度だけ明確にマイナスの感情を原動力にした記事を書いた事はあります。第178回↓です。
この記事はタイトルの時点で「不味い」と言ってしまっています。この記事自体がマズいかも。
いや、違うんです。この記事に書かれているカレーは「不味すぎて逆に面白い」レベルだったんです。ホントに。「不味すぎて一度、食べるべき」と思ったので記事にしたのです。記事自体も面白く出来たし、お店の宣伝にもなっているのではないかと僕は思っています。
そう、僕はこの記事を読んで「面白い記事だし、お店の宣伝にもなるのでは?」と考えているのですが、それをお店がどう捉えるかは全く別の問題なんですよね…。
本日の締め
今回は僕がコンテンツを作る上で考えている内容についてのお話を書いてみました。
マイナスの感情を原動力にしたコンテンツにも一般的に素晴らしい評価を下されているモノは存在します。例えばピカソのゲルニカなど。
ピカソ自身はこの作品について多くを語ってはいないらしいので、本当にマイナスの感情を原動力に作られたのかはわかりません。僕の勝手な解釈です。
もしかすると、マイナスの感情を原動力にして素晴らしい評価を得るためにはピカソくらいの技量が無いと難しいのかもしれません。あまり技量の無い人間は、それを軽率に扱わない方が良いのかもしれませんね。
本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。
人間はなによりも感情が大切な生き物だと思います。