こんにちは。色々勉強しないといけない男、チョッピーです。
その川は激流
時の流れは速い。
東京を対象とした第4回目の緊急事態宣言が発出されたかと思えば、オリンピックが開催され、オリンピックが開催されたかと思えば、各地で新型コロナウイルスの陽性者数が最高値を記録。
現在は、そのまま複数の県を対象に緊急事態宣言の発出が検討されている段階だ。
上に書いた出来事は全て7月12日から本記事掲載日(7月29日)までの間に起きている。その間、なんとたったの17日だ。
現代は短期間にあまりに色々な出来事が報道される時代。僕達は、そのひとつひとつの意義を考える間もなく日々を過ごしている。そうでなければ、社会に取り残されてしまう。
そんな時代であることは分かっている。わかってはいるのだが、僕はこの1週間ほど、ずっとひとつの出来事について考えてしまっている。
それはオリンピック開催前日の7月22日に起こった。東京2020オリンピック競技大会開会式および閉会式制作・演出チーム、クリエーティブチームの小林賢太郎の解任についてだ。
小林賢太郎氏の解任について思うこと
まず最初にお伝えしておくと、この件に関して僕は「彼を解任した判断はおかしい」などと言うつもりはない。
では、何を考えているのか? それは以下の2つだ。
- この件は、何がクリティカルな問題だったのか?
- この件を受けて、僕達は今後の人生をどのように生きていけばいいのか?
今に至っても、上の件に関して、僕の中で綺麗に考えがまとまっているとは言い難い。だが、ある程度の考えはまとまってきた。
記録の意味も含めて、ここに書いていこうと思う。誰かの何かの参考になれば幸いである。
事実確認
まず最初に、とても簡単に事実確認をしてみたいと思う。
- 1998年に「小林賢太郎氏が作成したホロコーストを揶揄する言葉が使われているコント」を収録したビデオソフトが発売される(参考:本件に関する小林賢太郎自身のコメント)
- ネット上で上のコントの内容を問題視する投稿が為される
- 中山泰秀防衛副大臣等を経由し、7月21日に米国のユダヤ系人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」より「1」で説明したコントの内容を非難するコメントが出される
- 7月22日に東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会が小林賢太郎氏の解任を発表
以上だ。
論点
小林賢太郎氏の解任については、ニュースやネット上の投稿を読む限り、以下の論点があるように思える。
- 小林賢太郎氏作成のコントはホロコーストを揶揄していると言えるのか?
- コントという創作物の内容を理由に、その作者を処罰するのは表現の自由を侵害しているのではないか?
- 1998年に発売されたビデオソフトの内容を理由に、現在の人物を処罰するのは適当なのか?
他にも論点はあるのかもしれないが、本記事では上の論点に関して僕の考えを書いていきたいと思う。
小林賢太郎氏作成のコントはホロコーストを揶揄していると言えるのか?
小林賢太郎氏作成のコントの該当部分の内容は以下の通りだ。
- コントの登場人物の一人がホロコーストを揶揄する発言を行う
- ホロコーストを揶揄する発言を行った登場人物とは別の登場人物が、それを咎める
つまりコントの該当部分は「行うべきではない行為・発言を行った者を咎める事により、その者の愚かさを笑う」という構成になっている。
これを理由に「該当部分全体の文脈としてはホロコーストを揶揄してはいない。むしろホロコーストを揶揄した者を咎めている。よって、これをもって小林賢太郎氏を批判するのは不適切である」とする意見もあるようだ。(参考:茂木健一郎氏のツイートなど)
僕はこの意見には反対だ。理由は以下の2つ。
- 「行うべきではない行為・発言を行った者を咎める事により、その者の愚かさを笑う」 という構成のコントを作る上で「ホロコースト」という実在の悲劇を題材にする必要はないため
- 全体の文脈がどうであろうと、ある出来事によって被害を受けた人や、その関係者がその出来事や被害者を揶揄する言葉に対して不快感を抱くのは当然であるから
この2つの理由により、僕は当該コントは「サイモン・ウィーゼンタール・センター」より非難されるに値する作品であったと考えている。
コントという創作物の内容を理由に、その作者を処罰するのは表現の自由を侵害しているのではないか?
この論点に関しては、僕は以下の2つの理由により論点にすらならないレベルの話だと考えている。
- 「ホロコーストを揶揄してはいけない」などという法律は存在しないため
- 「ホロコースト」という現実の出来事を題材にしていながら、それを「フィクションだから尊重せよ」という姿勢を取るのはフェアだとは言えないため
僕は「表現の自由の侵害」は「ある表現を公的な力(=法律)により制限されること」だと考えている。
「公的な力」によりそれを制限されている場合、その力が及ぶ範囲に生きている人は、それを行えなくなる。これは間違いなく権利の侵害である。
一方、「公的な力」により制限されていない表現は、何の問題もなく行える。単純に、その行為の結果を表現者自身が受け止める責任が発生するだけだ。その中には賞賛もあれば糾弾もあるだろう。
小林賢太郎氏に対する反応は法的な裁きではない。アメリカの人権団体が表現への反応として非難を行い、それを受けて東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会が自身の裁量で彼を解任しただけだ。
それは過去の功績を基に、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会が小林賢太郎氏を閉会式制作・演出チーム、クリエーティブチームに任命したのと本質的には全く同じことだ。
「2」の理由については詳しく説明するまでも無い。
確かにコントはフィクションであり創作物であるが、ホロコーストは現実の出来事である。現実の出来事を自らの創作に利用していながら、「現実の観点でフィクションを批判するな」という主張は筋が通らない。
以上、2つの理由により僕は、小林賢太郎氏の解任は表現の自由を侵害してはいないと考えている。
1998年に発売されたビデオソフトの内容を理由に、現在の人物を処罰するのは適当なのか?
この論点はさらに2つの論点に詳細化できる。
- 1998年当時の社会通念上、ホロコーストへの揶揄は許容されていたのではないか?
- 20年以上前の言動についての道義的責任を追及するのは適当なのか?
それぞれについて僕の考えを述べる。なお、僕のこの論点に対する結論は「適当だ」である。
1998年当時の社会通念上、ホロコーストへの揶揄は許容されていたのではないか?
僕の記憶が正しければ、1998年当時もホロコーストへの揶揄は許容されていなかった。
だが、実際に今回の作品はビデオに収録され、販売されている。この事実から考えると、該当コントの内容は当時、問題視されてはいなかった…という判断もありうるのかもしれない。
僕はこの判断は間違っていると思う。
このコントがビデオに収録され世間に流通したのは、単純にこの作品に関わった方々の倫理観に問題があっただけであり、当時からホロコーストへの揶揄は許容されていなかったと考える。
でなければ、そもそも 「行うべきではない行為・発言を行った者を咎める事により、その者の愚かさを笑う」という構成のコントにおいて「ホロコーストへの揶揄」がチョイスされるわけがないのだ。
これは当時から「ホロコーストへの揶揄は行うべきではない行為・発言」との社会的な認識があった事の何よりの証左だと思う。
20年以上前の言動についての道義的責任を追及するのは適当なのか?
僕は適当だと考える。その理由は1点。
「道義的責任に時効はあり得ない」からだ。
たとえば、今、僕があなたを公の場で不当に激しく侮辱したとしよう。あなたは、あなたが一番言われたくない言葉を公の場で投げつけられ、多くの人に笑われる事となった。しかも、その様は映像作品として販売され、公開されている。
それから20年後、僕が何食わぬ顔で「やぁやぁ、久しぶり! 食事でもどう?」と言ってきたら、あなたはどう感じるだろうか。
その気持ちが、この論点への回答だと思う。
僕達は今後、どうすべきか
今まで述べてきた通り、僕は小林賢太郎氏の解任について「妥当」だと感じている。
さて、それでは僕達はこの様な問題を受けて、今後、どの様に生きていくべきだろうか。
もしかすると僕達も小林賢太郎氏と同じように、過去に誰かを著しく傷つける言動をしてしまっているかもしれない。
本人としては別に相手を傷つける意図はなかったのかもしれない。フィクションのつもりで発した言葉だったのかもしれない。その瞬間には誰からも責められなかったのかもしれない。また、それは昨日の出来事かもしれないし、小林賢太郎氏と同じく20年前の出来事であるのかもしれない。
僕達は、それに気付いた瞬間、謝罪を行うべきだと思う。
自分たちの意図は関係無い。それが完全なフィクションでない限り、いつ・どのように行ったのかも関係がない。
謝ったところで、傷つけた相手からの許しが得られる保証はない。保証はないが、少なくとも「知らぬ存ぜぬ」で通すのは人の道を外れた所業だと言えるだろう。
悪い事をしてしまったら、それに気付いた瞬間、誠心誠意、謝罪するしかないのである。
本日の締め
今回は小林賢太郎氏の解任を受けて、僕が自らを省みたお話を書いてみました。
さて、ここで僕自身も懺悔を行いたいと思います。
1998年当時、僕は該当のコントを観てはいません。観てはいませんが、おそらく、それを観ていれば好意的な評価をしていたと思います。
当時の僕はホロコーストに対する意識が低かったという事です。この様な記事を書くほど今回の件について考えたという事は、もしかすると今もそれほど意識が高いとは言えないのかもしれません。
今後は人道に対する罪についての勉強を続けると共に、自らがその加害者になってしまわぬように意識し続けたいと思います。
本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。
小林賢太郎氏の解任の件の責任は、小林賢太郎氏一人にあるのではないと個人的には考えています。