こんにちは。最近は難しい本を読んでいない、チョッピーです。
緊急ドタバタ帰省
実は
というわけで諸事情により地元、別府にいる。
帰宅日は今のところ確定していないが、本記事掲載日(24日)か、その翌日(25日)あたりには大阪に戻る予定だ。
たぶん25日の午前中に新幹線で帰宅する…のではないかと思います。たぶん。
今回の帰省、実は本記事掲載日の前日(11月23日)未明まで予定されていたモノではなかった。
急遽、地元に戻る時、その理由はあまり喜ばしくないモノである場合がほとんどだと思う。
今回もご多分に漏れずそうである。
僕の親族のプライベートにも関わる話なので詳細は伏せさせて頂くが、身内に不幸があったのだ。
変に隠して読者の皆様に気を使わせてしまうと申し訳ないので、故人と僕の関係だけお伝えします。父方の祖母です。
そのおかげで今回の帰省は極めてドタバタしている。
おそらく別府滞在中はずっとドタバタしたまま過ごし、そのままドタバタ帰宅…となるだろう。
稀有な気分なので
というわけで、実は今回の記事はネタも構成もそんなに考えられていない。
空き時間…というか、お通夜が終わって久しぶりに集まった親族との挨拶やら、その他諸々を終えた真夜中にシコシコと書いている。明日の日中には葬式があり、どう考えても記事を書く時間が取れそうにないからだ。
そんなわけで今回の記事はいつにもまして悪文となってしまっているかもしれない。だとしたら申し訳ない。
誠にごめんなさい。
しかし…この記事は葬儀場の遺族控室で書いているのだが(最近は葬儀場にもフリーWi-Fiがある!)、遺体が安置されているすぐ側で親族と共に飲み食いをし、彼らが眠る(永遠の眠りをしている方も、そうでない方も混在している)傍らで一人だけキーボードを叩いているのは…なんとも妙な気分がする。
せっかくなので今日はその妙な気分を活かして(?)僕の死生観でも語ってみようかと思う。
ものすごく無為な記事になってしまいそうな予感もするが、「そんな考え方もあるのね」と思って頂ける方が一人でもいれば幸いだ。
新喜劇、もしくはコロコロコミックのように
人は誰しも望まずに突然この世に生を受け、望むと望まざるとに関わらず死んでいく。
その一瞬の間に、命の意味や、世界の成り立ちについて思いを馳せた経験がある方もいるだろう。
それらを極限まで追求し続けた方は哲学者と呼ばれ、後世にも名を残す偉人となる。
僕なんかはその様な方々の足元にも及ばない程度の考えしか出来ないが、それでも自分なりに「なぜ人は生きるのか?」や「なぜこの世は存在するのか?」に想いを寄せ、哲学書や宗教関係の勉強をしていた時期もある。
結果、あるひとつの結論に行きついた。それは
ダメだダメだ、僕なんかがいくら考えたところで何の解答も導き出せないわ。
である。
読者の方々が「ズコー!」という擬音と共に椅子から転がり落ちている姿がありありと浮かんでくる。本当だったらもっとカッコいい結論を提示したい気持ちもあるのだが、考え抜いた末の結論がこれなのだから仕方がない。
暗闇を照らす光
命の意味を考えるにあたっては「なぜ生まれたのか?」を考えざるを得ない。そして、それは当然の帰結として「なぜこの世は存在するのか?」という問いに繋がる。
ある者はその原因を神に見出すのかもしれない。またある者は自然現象としてその謎を解き明かすのかもしれない。
科学技術が発展すれば、いずれはその謎も解き明かせるのかもしれない。だが、少なくとも現在はその真相は人間には究明できない領域である。少なくとも僕はそう考えている。
となると、命の意味自体も少なくとも現在の人間には究明できない。究明できない事は「わからない」として受け入れるしかない。
理性に依っていては命の意味は解き明かせないとするならば、人間は暗闇の中を意味を求めて永遠に彷徨い続けるしかないのだろうか?
そんな事はない。人は意思の力により自らの命の意味を規定できる。
どうせ、真相は誰にも究明できないのだ。だったら、勝手にでっち上げてしまえばいい。
それは見当違いの方向を照らす偽りの光かもしれない。その先に何があるのかすらもわからない。
栄光が待っているのかもしれないし、永遠の苦痛が待っているのかもしれない。もしかすると何もないのかもしれない。
でも、そんなモノは関係無いのである。人は光さえあれば、そこに向かって歩き続けられる。
その先の事なんて辿り着いた後に考えればいい。
歩くためには到達点の情報など不要である。ただ、目印となるモノさえあれば、それで良いのだ。
本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。
せっかく別府に帰省しているので色々な温泉に入ってみたいところなのですが、そんな時間は取れそうにありません。でも、実はこの記事を書く前に「ひょうたん温泉」にだけは入ってきました。それくらいは許して…。