こんにちは。やりこみプレイ大好き、チョッピーです。
その矢は早すぎる
先日掲載した『Daily Choppy !』第1083回 ↓ にて『今日から2022年も後半に突入した』と書いた。
それからあれよあれよという間に時は流れ、気付けばすでに7月も中旬だ。
いや…早すぎる。いつの間にか七夕も終わっている。
「光陰矢の如し」とは言うが、なんぼなんでも早すぎる。
ちなみに「なんぼなんでも」っていかにも方言っぽい響きですが、実は小説でも使われているし、辞書等にも掲載されている標準語です。どうでもいいですけど。
なんだろう。
上に書いたような「どうでもいいこと」を書いたり行ったりしているうちに時が流れ去ってしまったのだろうか。
こんな時に思い出すのは「”もう半分終わった”と捉えるか、”まだ半分もある”と捉えるか」的な言葉だ。
前者は残り時間についてネガティブな評価を下している。後者はポジティブ。
僕は…間違いなく前者で捉えちゃってるかなぁ…。
この展開だったら普通「ポジティブに捉えよう!」的な流れになるんじゃないの。
いや、だって…実際、もう7月も半分しかないし…。
根がネガ
時の流れに限らず、僕は基本的に世の中を悲観的に捉えている。
具体的には
- 今日は昨日より悪く、明日は今日よりも悪い
という世界観で生きている。
どうしてそんな絶望的な世界観で生きているのか。
理由は…よくわからない。
確かに少子高齢化や、社会保障費の増大や、上がらない賃金など「明日の方が悪くなる」と思われる事実は多くある。
ただ、少年犯罪の減少など社会が良くなっている事実も無いわけではない。それに、街の発展や生活の利便性などは(数値化は難しいかもしれないが)数十年前と比べれば圧倒的に良くなっているハズだ。
今はどこの街も基本的にキレイですし、ネットも整備されていますし、スマホもあるし、音楽・ゲーム・マンガなどのクオリティの向上は留まるところを知りません。どう考えても世の中は昔よりも良くなっている。たぶん。
このように、理性で考えれば「今日は昨日より悪く、明日は今日よりも悪い」という世界観は事実にそぐわない思い込みだとわかる。
だが、やはりどうにも僕は自分の世界観として刷り込まれたネガティブな考え方を簡単には払拭できそうにない。
悲観的な結論
とはいえ、このようなネガティブな世界観でこの世を生きている人は僕だけではないように思える。
実際、ネット上には「個人が何をしても、どうせ事態は好転しない」的な悲観的なコメントも散見される。
もちろんネットの意見が全てではありませんが、そのような意見が存在するのも、また、確かです。
これらの意識に基づいて生み出された言葉のひとつに「親ガチャ」というモノがあるように思える。
確かに「生まれた場所」や「親」など、自分では選べない境遇によって決まってしまう要素は多いだろう。
かくいう僕自身も「人生のほとんどは運によって決まる」と思っている部分もある。
世の中の成功者を眺めていても「Aさんが社会的に成功して、Bさんが成功しなかった理由」に決定的なモノが見付けられないケースは多いと思われるためだ。
実力の高い人が、必ずしも社会的な成功を収めるわけでもありませんし。
だから「個人が何をしても、どうせ事態は好転しない」と考える人がいるのも、理解は出来る。
「だからこそ」主義
でも、だからと言って僕は「個人が何をしても、どうせ事態は好転しない」とは考えていない。
「ほとんどが運によって決まる」からこそ「行動によって変えられる数少ない何かを少しでも良くするために行動し続けるべき」だと考えている。
そもそも論として「チョッピーは親・境遇などのガチャに外れたとは思っていない」という点も大きいのかもしれませんが。
「個人が何をしても、どうせ事態は好転しない」と考えている人と僕は、おそらく似たようなネガティブな世界観を共有している。
だが、そこから導き出した結論だけは違う。
この違いがどこから来るのか。それは僕にはわからない。
これは「残り半月」をどう捉えるのかと同じ様な話なのかもしれない。
僕は残り時間に関してはポジティブに捉えられない。7月は、もう、半分しかないし、2022年も、もう、半分以上が終わってしまっている。
だからこそ、残り少ない日数も頑張らなければ。
僕がこの様に考えられるのも、親や境遇や、その他諸々の運によるものなのだろうか?
うーん、実際のところ、そうなのかもしれない。
本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。
もしかすると「僕は”座して死を待つストレス”に耐えられない人間」というだけの簡単な話なのかもしれません。