【Daily Choppy !】第866回:挑戦依存症

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こんにちは。サムネから『笑ゥせぇるすまん』の影響を感じる、チョッピーです。

挑戦依存症
挑戦依存症

先人の知恵がすでにある

心穏やかに生活するための術をご存じだろうか?

「それが分かれば苦労はしない!」という叫びが聞こえてきそうな気もする。ただ、実はこの問いは少し大きな本屋にでも行けばすぐに答えが見つかるタイプの問いなのである。

なにしろ「心穏やかな生活」は人類共通の永遠の夢の一つだ。

古今東西、様々な人が様々な考えを発表しており、それを基に討論が行われ、現在に至っては異様にクオリティの高い研ぎ澄まされた方法論として宗教や道徳に組み込まれている。

ただ、その方法論は「唯一絶対のモノ」として集約されているわけではない。

個人的には大きく分ければ「キリスト教を始めとする一神教的な方法論」と「仏教的な方法論」の2つに分類できるのではないかと感じている。

つまり

  1. 絶対者の教えに従う事により死後の世界の幸福を約束してもらい、ひいては現世の安寧を獲得する方法
  2. 自分自身を含めた現実を現実としてそのまま受け入れ、その中であるがままに暮らすことにより現世の安寧を獲得する方法

である。

チョッピー
チョッピー

上に書いた文章について「チョッピーのその理解は間違っている!」等のご意見、当然、あると思います。僕は「自分の意見こそ唯一絶対!」とは主張しませんので、反対意見がある方は note 等に自分の意見を書いてみると面白いのではないでしょうか?

口先だけではなんとでも言える

さて、いきなり偉そうに「こうすれば心の平穏を得られるよ!」と書いてみた。

読者の皆様の中には

不信マン
不信マン

そんなに偉そうな事を言うからには当然、チョッピー自身はこれらの方法論を活用して日々、安寧な生活を享受しているんだろうな?

と思われた方もいらっしゃるのではないだろうか。

僕ならもう少し口の悪い感じで「偉そうな事を言うからにはテメェはそれを実践してるんだろうな? あぁ?」と思う。ガラが悪いので。

で、実際のところはどうかと言うと、もちろん! 方法論の「1」と「2」のどちらも実践していない。

チョッピー
チョッピー

だろうね。そんな展開だったもん。

そんな文章の読み方は止めて欲しい。

やらない理由

僕はどうして「心穏やかに生活するための術」を少なくとも知識の上では知っていながら、それを実践していないのだろうか。

「1」の方法論については理由は明確だ。

この方法論を実践するためには「絶対者」に対する信仰心が必要。僕にはそれが無い。

チョッピー
チョッピー

神? そんな不確かな存在は信じられない。かといってその存在の否定は悪魔の証明なので難しい。他人がそれを信じるも信じないも、その人の自由だけど、僕としては「いるかいないかはわからない」としか言えないわ。

とかすぐに言う。嫌なヤツだ。

「2」の方法論については…実践しようと思えば実践できなくもないとは思うのだけれど、それをするには僕は世俗的な欲望が強すぎる。

なんと言っても本サイト『ふらとぴ』のキャッチコピーに『Make everyone happy !!』などという大言壮語も甚だしいレベルの言葉を選ぶくらいの人間なのだから。

チョッピー
チョッピー

現実を現実として受け止める気が全くない。おこがましくも今の社会を「変えるべきモノ」だと考えていて、さらに尊大な事に「自分が変えなければ誰が変える?」とすら思っている。

僕のように驕り高ぶった人間性の持ち主は、そのままでは「2」の方法論を実践できない。

ロシアの文豪に学ぶ

考えてみると、僕は人生においてずっと「自分には過ぎた挑戦」をし続けている様に思う。

高校時代では喘息がある上に運動が苦手なクセにラグビー部に入っていたし、高校を卒業してからは英語が出来ないくせに「国際色豊かで英語力が問われる」と有名な大学に入ったし、就職では文系学部卒のクセにシステムエンジニアを選んでいるし、そんな職で働きながら謎に経営学を学ぶために大学院に通ったりしていた。

果てはシステムエンジニアという職を捨て「障害福祉施設および授産製品のコンテンツマーケティング」という世の中に存在していなかった訳の分からない分野で起業する始末。

誰に強制されたわけでもないのに「安寧」とは程遠い道ばかり選んでいる。

結局のところ、僕はずっと驕っているのだ。「自分に世界が変えられない訳がない」と心の底から思い込んでいる。でなければこんな人生は歩まない。

であれば、もういっそのことこのまま突き進むべきだ。

どこかのタイミングで「自分には無理だ」と思い知る時が来るかもしれない。もしくは人生を通してこのままずっと「ほら、やっぱり出来ただろ?」と更に驕りが強くなっていくのかもしれない。

どちらの人生でも、おそらくそれなりの幸せは感じられるだろう。

僕を含めた驕り高ぶっているタイプの人間にとって最悪なのは「本当は自分はもっと出来るハズなのに…」と燻り続けながら、仮初の安寧の中で日々を過ごすことなのだ。

その選択肢を選んだ人生の晩年は、地下室の中でひたすら手記を書き続けるモノになりかねない。

本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。

「はぁ…辛い…」と思ってしまった時にはこの記事を読み返そうかな…と思います。

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