こんにちは。光大好き、チョッピーです。
天才登場
めでたい!
新年が?
それもそうだけど、そうじゃない。
僕の1月1日と1月2日の新型コロナウイルスの抗原検査の結果が両日とも陰性だったのだ!
これにより僕の外出自粛は、1月2日をもって解除となった。
めでたい!
なお、事の顛末を簡単にまとめると次の通りです。
- 12月29日にチョッピーの妹の家族全員の新型コロナウイルス感染発覚
- 「1」の前日(12月28日)にチョッピーは感染対策をしていない状態で6時間ほど妹の子供2人と同室に滞在=チョッピーは新型コロナウイルスの濃厚接触者
- 新型コロナウイルス感染者との濃厚接触による外出自粛は2日目と3日目の検査結果が陰性であれば解除しても良い=チョッピーの検査結果は2日目と3日目(1月1日と1月2日)の両日とも陰性のため、自粛解除
さて、というわけで…僕は今から外出します。
え?
だって、せっかく外出自粛が解除されたんだから。
家にいるなんてもったいないでしょ!
今は1月3日の午前3時だけど、そんなの関係ねぇ! そんなの関係ねぇ!
ピーヤ!
そこは「はい、オッパッピー」じゃないのか…。いや、それはさておき、お前がいなくなったら、ここから先の文章はどうするんだ…。
大丈夫!
ここから先の文章は僕の知り合いの天才中国人、天 財満(てん さいまん)に書いてもらう。
は?
天 財満だ。よろしく。親しみを込めて「天才マン」と呼んでくれ。
は?
天才は何でも知っている
というわけで、ここからはワタクシ天 財満が文章を書いていく。
ホントにやるんだ…。
本当にやる。しばしお付き合い頂きたい。
さて、本記事が掲載される日は1月3日だと聞いている。
つまり皆様がこの文章を目にしている時、すでに皆様は2023年の姫はじめを経験している事になる。
おいお前! 何をいきなり意味不明な下ネタをブッこんでるんだ!
姫はじめにブッこむとは…。君も中々、品の無い人間の様だ。
黙れよ。
さて、一連のやり取りを経て、読者の皆様が何を思われたかは私にはわからない。
また、それと同様に2023年になってから皆様がどのように過ごされていたのかもわからない。
だが、これだけは言える。
皆様は絶対に2023年の姫はじめを経験しているのだ。
何を言っているんだ、コイツは…。
何故ならば、姫はじめとは本来、1月2日の事を指す言葉だからだ。
え、そうなの…?
本当だ。信用できないか?
ならば『Daily Choppy !』の作法に則り、コトバンクから言葉の意味を引用しよう。
暦の正月2日のところに記された日柄の名。種々の事柄をその年に初めて行う日とされる。姫飯を食べはじめる日、「飛馬ひめ始め」の意で馬に乗りはじめる日、女が洗濯・縫い物などを初めてする日など。また近世以降、新年に男女が初めて交わることにもいう。
姫始めとは|コトバンク
いかがかな?
へぇ…そうなんだ…。よく知ってたね。
もちろん、私は天才だからな。
天才的発想を支えるベースは膨大な知識。
私が古今東西、あらゆる知識を備えているのは当然の話なのだよ。
そうですか…。
おっと、そろそろチョッピーが戻ってきたようだ。
私はこの辺りでお暇させて頂こう。
さらば!
信用の有無
天才マンこと天 財満に代筆してもらったんだけど、どうだった?
なにこの茶番って感じ。
「姫はじめ」に関する豆知識とか、役に立たなかった?
豆知識としては面白かったけど、最初は何を意味不明な事を言いだしたのかと思ったよ。
どうして?
どうしてってお前…天 財満なんかこの世に存在しない胡散臭すぎるキャラクターだからだよ! なんなんだ、今回の話は!
そう、確かにおっしゃる通り天 財満は僕が急遽、創作した胡散臭すぎるキャラクターだ。
そんなキャラクターの発言を訝しがるのも無理はない。
だが…今回、「姫はじめ」の意味を説明したのが、仮に「今でしょ!」で有名な林 修だったとしたら?
はぁ…?
もしくは無双の使い手として有名な池上彰だったとしたら…。あるいは著名な小説家である村上春樹だったとしたら…。
少なくとも「胡散臭い」や「意味不明」という感想は抱かなかったのではないか?
まぁ…そうかもね。だって、言ってる人の信用が違うもん。
そうだろうそうだろう。僕もそう思う。
だから今回の「姫はじめ」の話も、天 財満じゃなくて最初から僕が説明していれば、読者の皆様もすんなり信用して頂けたハズなのだ。
いや、それはどうだろう…。
え…?
もしも、そうだとしたら
ここまで「文章の信頼度は執筆者の信頼度次第で変動する」というお話を書いてきた。
著名人が書いた文章は内容がどうであれ信頼され、無名な人物が書いた文章は内容がどうであれ信頼されない。
これは「後光効果」などの言葉で説明できる、人間に備わった基本的な機能によるものなのだと思う。
かくいう僕自身もこのバイアスの影響下にある。
執筆者の影響を排した形で、純粋に文章自体の自分にとっての価値を測るのは難しい。
だから、著名人の書いた価値のない文章の内容を鵜呑みにしてしまう可能性は高い。同様に無名な人が書いた有益な文章を無視してしまう事もあるだろう。
そこで思った。
いったん、全ての文章を「天 財満が書いたモノ」として読んでみるのはどうだろうか。
その条件下にあっても「価値がある」と思えた文章は、本当に「文章自体に自分にとっての価値がある」と言えるのかもしれない。
本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。
いつの日か、また天 財満に代筆してもらう時が来るかもしれません。来ないかもしれません。
乞うご期待!