山頭火さん、2月19日から旅に出ています。
23日は、北九州市の戸畑漁港に行ったようです。
枯葦に汐みちてくる何にもゐない
現在の戸畑漁港の様子をネットで調べてみました。
葦の茂っているような場所は、予想していましたが、もうありません。
コンクリートで整備された漁港になっています。
万葉集にこんな歌があります。
『若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る 山部赤人』
訳としては、若の浦に潮が満ちてきたら、干潟が無くなるので、葦の生えてる岸辺に向かって、鶴が鳴きながら飛んで渡っていく。という風景を詠んだ歌だそうです。
山部赤人さんは、自然を美しく歌う(ざっくりすぎますけど)叙景歌で有名です。
残した歌から、諸国を旅した人だろうとも推察されています。
歌人と俳人という違いはありますが、山頭火さんに通じるところを感じます。
どちらも、自然や時間を言葉で切り取る人ですから。
葦が生えているところに、潮が満ちてくる。この情景。
平安時代の人だろうが、昭和の人だろうが、詠人にとっては、何か掻き立てられて、何か詠まずにはいられない、そんな情景なんですかね。
若の浦、今の和歌山県、和歌の浦。
こちらも、ネット検索してみましたが、やはり、葦は消えているようです。
全国的にも、葦が生えている場所はずいぶん減っているようです。
平安時代から1000年以上経て、昭和まであった葦の水辺の風景が、山頭火さんがこの句を詠んでから、たった89年後の令和では、気軽に見られなくなってきているんですね。
葦に関する、歌や俳句が詠まれなくなる日も近いですかね。
パンダが中国に帰ったそうです。
パンダ好きというわけでは無いんですが、見られなくなったと聞くと、一度ぐらい見ときゃよかったな、と思ったりします。
失ってから気付いても遅い。
歌でも、小説でも、漫画でも、映画でも、ドラマでも、ニュースでも、飲み屋でたまたま隣になった人も、ネットのなかの人も、ありとあらゆるところで、ありとあらゆる表現で、繰り返し教えさとす、使い古された言葉です。
しかし、この言葉、人類で一番蔑ろにされている言葉かもしれないと思っています。
葦の水辺、見といた方がいいですかね。
今すぐじゃなくても大丈夫か。
多分、すぐ忘れるんですけどね。
パンダも葦の水辺も、あの人の声も。
失ってから気づいても遅い。が、蔑ろにされている理由は、多分このあたりですかね。
気づいたら、何にもないです。
潮時ですか、そうですか。
いい機会ですね。
心残りありませんか。どうですか。